レポート

【特別寄稿】三浦基「能と現代演劇」

撮影:松本久木(上:アトリエでの三浦、末尾:三浦プロフィール)

演出家の三浦基さんが主宰し、京都を拠点に活動する劇団「地点」。日本の現代演劇を代表するこの劇団は、「観劇観能エクスチェンジプログラム」を企画するなど、近年、能楽に接近しています。今回、三浦さんに「能と現代演劇」というテーマで寄稿していただきました。

私の劇団「地点」が開催している「観劇観能エクスチェンジ・プログラム」という観客交換の企画がある。京都観世会館の協力とセゾン文化財団などからの助成を得て、2018年から三年間の計画で、能と現代演劇の観客が相互に交わり、それぞれの舞台の特性や違い、あるいは共通点があるのかどうかなど学ぶことを目的としている。一年目は、三回の観能と地点の作品を三本観劇するというほかに、四回のレクチャーを実施した。私自身もレクチャーの司会を務めるなどして、能の研究者や実演家の人々と交流し、ただ単に能を見るだけでは得られない経験をしている。引き続きプログラムの二年目を迎えるにあたり、さらに能と現代演劇について考えを深める機会を持つわけだが、現時点で私が感じていることを途中経過としてまとめておきたいと思う。

レクチャー「能舞台と序破急〜隠された関係に迫る!」2018年10月20日、大江能楽堂(「観劇観能エクスチェンジ・プログラム」)

正直に言うと、私はときどき自問する。そもそも、なぜ能なのか。どうして、今さら私はこのように能への接近を行っているのか、と。この問いに対して、自分でもあまりうまく答えられないという前提があることを告白しておかなければならないだろう。のこのこと手ぶらで能楽堂に赴き漠然と舞台を見たり、はたまたレクチャーでは、学識の高い話を面白くしてもらったり、実演家の貴重なエピソードを聞いたりする度に、繰り返し、先の問いが湧いてくる。私は、決して能のいい観客ではない。観能中やレクチャーを聞いていると、なぜこの特殊な世界が今も存在しているのだろうかと根本の部分に突っ込んでしまうところがある。能には普遍性があるからとか、日本人の美学だからとか紋切り的な答えでは解決できそうにない気持ちがある。それで納得するには、少しのんき過ぎやしないかと抵抗する自分がいる。この感覚は、おそらく私が中世人ではなく現代人だからという他ないのだが、では、本当に現代に生きているからといって、私は現代人だとすっきり言い切れるのかという問題もまたある。さらには、近代をどう思っているのか、本当にそれを消化できているのだろうか、むしろ私は未だに近代人として客席にいるのではないだろうか、などと能に携わる人たちと交流していると、〈現代〉の雲行きがどんどんあやしくなってゆくから不思議だ。何かしらの危険すらも感じてしまう。

以前に能の役者から、私と話をするのは鋭くて恐い、と冗談まじりに言われたことがあった。それを褒め言葉として聞くことはできず、現代人を装った私の無防備さへの警鐘と受け止めた。しかし、お互い警戒ばかりしていても仕方がないわけで、それこそ胸襟を開いて話をしてみたいと思ってみるのだが、ところで私は何を開くことができるのだろうか、とまた自問してしまう。まともな演劇人ならばそこで世阿弥の『風姿花伝』を開くことから始めるのだろう。私も学生時代に、この六百年以上も前の書物を開いてはみたが、なかなか自分の問題として受け止めることが難しかった記憶がある。元々この書物は明治以前までは、一子相伝の、つまり観世家などで秘密に守られてきた実用書なわけだから、現代の何の関係もない学生の私などが興味本位で開いたところで、なかなか伝わるはずのないものであろう。だから、私はその結果を見つめればよいわけで、つまり直に観能して、その善し悪しを吟味することがマナーだと言ってよいはずだ。しかし一方で、六百年以上も本番を途切れさせることなく今日までその営みを続けている能のたった一回の舞台を観たところで、一体、何がその善し悪しなのかを判断することができるのだろうか。やはり、いつもの観劇とは少し勝手が違うこともまた事実だ。

歴史を視野に入れなければならないことは、何も能に限ったことではなく、現代演劇も同じである。演劇は、歴史の上に成り立つ極めて同時代的な表現であり、その時代によって変わり続けてゆくものであろう。私たちは、能を世界でも稀な舞台芸術として賞賛する。六百年以上も昔の舞台が、当時のまま現存している貴重な演劇だと。ところが、「世阿弥の頃は正座ではなかった」とか、「謡のリズムやテンポは、時代によって違っていた」などとレクチャーを通して知るにつれ、能も大変に難儀なのだな、と今さらながら感じている。私にとって能は、外から眺めてあまり触れずにきたものであると同時に、舞台周辺の皮膚感覚はそれほど遠くにあるわけでもないという奇妙な存在だ。

これから試みたいのは、能そのものを紐解く作業ではなく、現代演劇の視点から能をどう捉えてきたのかということを、私なりに整理することである。それは、あくまでも日本の演劇の近現代の事情について考えることだと言ってよい。なぜ現代演劇は能を通して前近代に向かい合おうとしたのかという問いでもある。

ここに、ある対談がある。日本の現代演劇を牽引することになった二人の演出家、太田省吾と鈴木忠志が能について語っているものである。1974年に演劇雑誌『新劇』に掲載されたこの対談を許される限り、引用してゆきたいと思う。というのも、ここで語られていることが、日本の近現代の演劇の事情のほぼ全てなのではないかと思うからである。

太田    さっき、能を意識しているんじゃないかといわれたんだけど、直接、能とかいうよりは、ああいった無理、不自然さ、声の出し方から、いちいちの所作にいたるまで不自然ですね、そこのことに関心をもっているんです。つまり、自然的な生活、存在の仕方からの逸脱として劇を考えた場合、あの不自然さは劇のもつひとつの雄大な結論であると思っているんです。(中略)自然的な生からの逸脱を劇的に進展させようとするとき、それは役者の身の動き、発声として具体化しなくちゃならない。最近、あなたが書いていたのを読んだんですけどね。『ユリイカ』の「騙りの演技」、あれは非常に、こういったことが具体的なところで考えられてますね、現場の具体性として。あそこでは、生理的苦痛への挑戦といっていますけど……。

鈴木    あれは武智鉄二の表現なんで、その言葉だけだと間違ってはいないけど、ちょっと誤解を生むような気がする。つまり、イメージというか、仮構力というか、そういうものを実体化するときに必然的にともなう生理的苦痛ということですよね。そういうものを克服するなりそれに挑戦しなければ演劇なんていう不自然な行為は成立しようがない、ということは言えると思うんですね。むろんこの場合の不自然というのはもうひとつの不自然ということで、超越的な行為といった方がいいかな。俳優の演技はそうですからね。

ここで二人が話しているのは、〈自然〉とは何か、という問いの立て方ではなく、むしろ〈不自然〉であることの必然性についてだと言える。太田が能を「あの不自然さは劇のもつひとつの雄大な結論」と言うとき、ただ単に能を賞賛しているのではなく、そこに至るまでの「具体化」をどうすればいいのかを自らの問題として気にしている。鈴木が言う「もうひとつの不自然」は、フィクションと言い換えてもよいだろう。つまり演劇とは「不自然な行為」である、とわざわざ言い切らなければならなかった。本来、「俳優の演技」とは「超越的な行為」であるとあえて言わなければならなかったのは、裏を返せば、そういう俳優がそうそういないことを突いている。どこにいないのかは、〈自然〉を演技している限りにおいて、ということに他ならない。二人は能をヒントに、自分たちの演技の有り様を考えようとしている。言うまでもなく、自分たちというのは現代演劇においてである。この二人は、演出について考えるとき、何よりもまず演技について、すなわち俳優の仕事について第一に重きを置いている。そのとき、能の自然からの「逸脱」を認めざるを得ないものとして見ている。ここで大事なことは、この二人に限らず、後にアングラと呼ばれることになった60-70年代の日本の演劇は、とにもかくにも、新たな役者論を志向したことだ。それは、「逸脱」をめぐっての競争だった。

太田    こういうことを考えるんだけど。つまり演技の問題として役者はどこらへんまで————もちろん展望ってものは非常にきかないんだけど、すごく実感的なことばでもいいんだけど、自分の演技を、おれはどこまで行くつもりがあるというふうなことが非常にもてない、あるいはもってないんだというふうに思う。それはとても危いことなんだと思うんですよ、自分にとって。
鈴木    そうだと思う。どこまで行くっていうのは、時間との拮抗性みたいなことでしょう。さっき言った、生まれて、結婚して、子ども生んで、年とっていく。それと同じように肉体も生理的な自然過程として衰えていく。男でいえば、性的にも不能になって、衰えて働けなくなって、死んでいく。そういう自然過程に対して、どの程度意識性として拮抗しようとするかっていう俳優のテーマの問題ですよね。能なんかやったことでもし何かあるとしたら、何百年も時間と拮抗し、逸脱しているわけでしょう。あれは一番自然の構造じゃないことを狙ったわけですよ。そういう意味で、非常な知的な逸脱だって見られるわけでしょう。

二人が問題にしている演技する人とは、まず「自分」や「おれ」や「男」というごく一般的な人間を前提としている。そこからどうジャンプできるのかを考えようとする。太田の言う「展望」はどこにあるのか、鈴木の言う「俳優のテーマの問題」とはどのように展開するのか。いずれ、俳優の演技を〈自然〉という発想からでは決して成立しないということを執拗に言わなければならない事情があったことは、先にも指摘した通りだ。次に続く鈴木の発言は、日本の現代演劇の幕開け宣言と呼んでよいものだと思う。

鈴木    ところが新劇はどういうことを言ったかというと、ああいう(能の)肉体は不自然である。自然な肉体に戻さなければいけない。ところが、自然な肉体なんてないんだよね、われわれに。自然ていうのはなにかっていうと、わからないわけですよ。自然て言ったときになにが出てきたかっていうと、日常われわれがやっているような無理のない発声であり、動きである。そうすると、どんどん即自的な日常に近づいてくる。ところが、日常ほど不自然を強いられている人間のあり方ってないわけでしょう。だからこそ革命なんて考えられるわけだし、そこが日本の新劇のものすごい基本的なまちがいだと思う。新劇の人なんかいまでも、自然な肉体とか自然な心理の必然性とか言っているわけ。そういう意味じゃ自然なんてものは全然ないんだ。だから能みたいなことになるってことじゃ全然なくて、逸脱を極限にまで自己必然性として追求できるかっていう問題じゃないかという感じが非常にするんだ。

先ほどから、私は「事情」という言葉を再三使ってきた。要は、「新劇」と名付けられた日本の近代リアリズム演劇の自然主義を否定しなければならないということが、日本の現代演劇の事情であった。加えて、新劇的リアリズム演劇があたかも主流になっていることを許している観客に対しても否を申し立てなければならなかった。言うまでもなく、1968年を契機として世界中で反体制の機運は高まった。日本もそれに遅れず学生運動は盛んになった。芸術においても、それまでの既成概念では耐えられなくなって、価値観の変更、美学の更新が起こってゆく。そのとき、彼らが打倒せざるを得なかったのは、新劇だった。それは決して、どこかの新劇団を攻撃するという小さな論争ではなく、近代における自然主義リアリズムの演技という、心情主義的でとてもやっかいな相手だった。その相手とはまったく違う「肉体」の在り方を舞台に提出しなければならなかった。太田の初期の代表作『小町風伝』は能楽堂で上演された。鈴木は自身の『トロイアの女』において観世寿夫を演出することで能の役者の「肉体」を目の当たりにした。これらの作業は、近代をなんとか乗り越えるための逆説的な手段だったと言える。前に進むために、中世からの能にその後押しを見出すという、保守的とも取られかねない賭けだった。

「日本の新劇のものすごい基本的なまちがい」とは、欧米あるいはロシアからリアリズム演技を輸入したことはいいが、そこにまったくの疑いを持たずに、それらを憧れの対象として模倣したということになろう。しかしその点を批判するに留まらず、鈴木は「革命」にまで言及する。当時の空気を考慮に入れると、そんなに突飛な発言ではないだろう。新劇およびそれを演劇だと思っている観客を相手に、革命すらも視野に入れていないのかと挑発しているかのようだ。もちろんこの挑発は、政治や運動とは一線を画さなければならなかった。そのとき、ふと日本の舞台に目を向けると、新劇では話にもならないので歌舞伎を横目に、結果、能まで遡ったのである。ところで、当の能の側は、現代の演劇をどう見ていたのだろうか。「世阿弥にかえれ」と主張した観世寿夫に次のような発言がある。

能は演劇のひとつである。しかしそれは、一曲を通して簡単な筋があって、相対する二人のないし数人の役者が扮装して筋を運んでいくという意味で演劇的であるということであって、普通のリアリズムの演劇などとは根本的にちがったものであるように思う。たとえば「隅田川」を見て観客が泣いたという話はよく聞くことであるが、果たして本当であろうか、と不思議に感じてしまう。「隅田川」の場合はまだよいとして、「野宮」(ののみや)のような曲だとしたらどうであろう。良かったということが、六条御息所(みやすどころ)の心情をよく表現したとか、晩秋の淋しい情景が滲み出ていたとかいうものとはいささかちがうのではないだろうか。たとえば仕舞(しまい)の美しさを考えてみる。「熊野(ゆや)」の仕舞ひとつにしても「立ちいでて峯の雲」と謡い出してから、「春もちぢの花ざかり」と一曲を終了するまで、何ひとつとしてシテの心情とか、辺りの情景を描写するような型はついていない、ただ意味のない動作が組み合わされているだけである。そのうえ、この「熊野」の仕舞の型は、「芦刈(あしかり)」という曲のクセの仕舞と、型のうえではまったく同じである。

これは観客の感情移入を懸念している発言と言ってよい。「ただ意味のない動作が組み合わされているだけ」という型の説明は、むしろ極めて現代的であると言わんばかりだ。不条理であると言い換えてもよい。つまり、ここでも新劇的な「普通のリアリズムの演劇」に対して否を前提にしないと、話が進まないのである。次の寿夫の発言は、大変に興味深い。

たとえば能の「カタ・・」(身振り動作)には、歌舞伎舞踊に見られるようなあて振り・・・・はひじょうに少ない。筋立てやことばの字義を逐うよりは、心理を示すといった動作のほうが多いのである。観客に説明を与えてしまうよりは、観客の想像力を誘おうとするわけだ。また、これはいまから二十年も以前のことになるかと思うが、能や歌舞伎や新劇の人びと集まってスタニスラフスキーの話などしたことがあったが、そのとき、能の役づくりを訊かれ、女性の役は「女性」であればいいので、どういう女性でなければならないということはないのですと答えて、ひじょうに変な顔をされてしまったことがあった。私の説明ももちろんまことに下手だったのだが、役を個人として捉えての感情移入や心理描写などでは、能の演技は成り立たないのである。

スタニスラフスキー・システムという近代リアリズム演劇の礎となった演技メソッドを引き合いに、「役づくり」について触れている。もちろん、その考え方では「能の演技は成り立たない」のは当たり前の話だろう。だが、ここでも能を説明するために、わざわざ近代リアリズムを持ち出していることになる。それだけ、我々は近代人なのかもしれない。寿夫はこのあと、本当に言いたいことを続けている。

が、それでも、まちがった意識の仕方を観客に対して持ち、表象的説明過剰の演じ方をしたがる能役者はいまたくさんいるし、反面、頭でものを考えるなど余計なことで、習った通りやりさえすればよいと主張して、戯曲を読もうとか、役を把握しようとかなどは一切マイナスになるとがんばる保守主義者も大勢いる。

能の「事情」である。彼らもまた現代に生きており、つまり近代の影響下にいるという点では同じなのだ。能役者の憂いは、太田や鈴木が抱えた現代演劇の事情と重なってゆく。

太田    自然ていうのをもう少し卑近な角度からいうと、何年か役者やるでしょう、そうすると、僕なんかの周囲でもそういう問題は起こるわけだけれども、自然過程からの圧力がものすごく強くなるわけだ。子どもが生まれたり、経済的にもう少ししっかりしなくちゃいかんということになったり、そういう問題は出てくる。たとえば、三十五とか四十っていう時期を最終的な年にとって、そこらへんでだいたい芝居をやめていっちゃうわけでしょう。

(中略)そこをどういうふうに考えるか。現実的にはわりあいそういうことが問題になっちゃう。問題になって、それが演技のレベルをきめていくっていうか、行く先はない。四十になればやめるだろう、行き先はそこらへんだというようなことで考えちゃえば、まさに、おれはどこへ行く、おれの演技をどこへもっていくというようなことにあらかじめ限界ができちゃうでしょう。それが現実的にはおもしろくさせないっていうか……。

鈴木    それはそうだと思う。そこで新劇はテレビという場へなしくずしに行ったわけでしょう。

もちろん、中世の頃は、「テレビという場」はなかった。しかし、能が時の政権に支えられていたこと、その関係や、加齢による役者の「行く先」は、当時の彼らにとっても決して軽い問題ではなかった。寿夫は、その辺りのことを次のように言っている。

将軍の代替わりによる社会状況の変化は、世阿弥や一座に大きな影響を与えずにはおかなかったろうが、それに加えて、世阿弥自身の年齢も、肉体的にも衰え、外目(よそめ)の花の失せる時期にさしかかっていた。前にもふれたように、中年の役者は、力量があればあるほど、その人間としての体臭の強さのようなものに観客の反発を買うおそれがある。いかにこれをかわし、しかもより深い美しさを創り出そうかと、この時期世阿弥は悩んだにちがいない。

この時期とは、世阿弥が『風姿花伝』を書き終えた、ちょうど四十代前半から十年ほどをさしている。「中年の役者」の「体臭の強さ」とは何か。衰えにより無意識に表出してしまう自我である。それは「観客の反発」を「かわし」得るのか。新劇は、なしくずし的に、つまり〈自然〉にその闘いを避けた。太田は、続ける。

太田    それはやっぱりちょっと考えなくちゃいけないと思うんです。その自然と不自然をそこの部分まで考えなくちゃまずいんじゃないか、というふうに思うわけですよ。たしかにそれは世阿弥なんかがよく考えた問題ですけどね。今の演技水準というのは四十までに達せられると思われるところが規準になっていると思うんですよ。それ以上というか、芝居を始めて二十年や三十年では達せられない演技というのは考えられない。ぼくはこのことをまずいというふうに考える。そんなことどうでもいいとは考えない。という意味で、ここでひきあいに出していいかどうかわからないんですけど、うちの劇団でいえば品川とか瀬川という年代の役者はつらいし、何とかしなくちゃいならないところにきている。こういうところでがんばってもらいたいと思うんです。これは、意気とかではかたづかない構造をもっているんですけどね。

鈴木    ゲバラなんかでも、ゲリラが革命戦士としての精神的な緊張、肉体的な緊張に耐えられるのはたしか、三十五から四十ぐらいまでである。四十以上になったら耐えられないというふうに言っている。そういうきびしい認識がある。じゃ、耐えられないということで、そこからスパッと切るかというと、演劇の場合それはちょっと違うような気もすんだよね。それを保障するのは幻想性だと思うんだけど。

太田    それ以外にないんですね、原則的には。

役者論として、四十歳あたりがその人間のピークだということでは「まずい」ということを、世阿弥も太田も考えている。そして太田は、劇団の役者である品川と瀬川という実名をさえ挙げている。さらに鈴木はゲバラを引き合いに出す。そして役者と革命戦士は「ちょっと違う」とも言っている。「幻想性」という言葉から、世阿弥が向かった夢幻能を連想できる。この辺りから役者論は、集団論へと繋がってゆく。

鈴木    自分が信じた幻想を実体化していくのにどういう方法論をみつけていくか。だから最終的には方法論の欠如なんだよね、自然性にやぶれていくってことは。単純にいえば、能とか歌舞伎ってものはわりと集団的にそういう仕掛けを残していったということはあると思う。その仕掛けがすごいわけですね、今の役者ではなく、全体的な構造がね。現代ではそういう集団的な方法論がない。これは歴史的な推移であって演劇人の責任ではないけど、ともかく大変なことになってる。だから、集団論というのは、演劇の場合、ずいぶん大きな課題ですよね。

能の場合、江戸時代を迎えて家元制度が強固になった。それは現在に至っても失われていない。瀬川や品川の息子は決して三歳から舞台にはあがらない。それ以前に、子どもがいないかもしれない。知る由もないのである。能はそれとは違って「その仕掛けがすごい」のは、近代を経て尚、この家族による集団性を選んだことにあると言ってよい。もちろん継承問題で大きな苦労があるだろうことは想像に難くない。どんな形であろうとも演劇にとって「集団論」が「大きな課題」なのは、そうとしか言いようがないほどの核心である。

ところで、歌舞伎は能をカブいた。パロディと言ってよい。そして驚くべきことに、歌舞伎役者ですら、今日、「テレビという場へなしくずし」的に向かっている。能の役者は、未だにそこへは行かない。私は別に能役者を讃えたいわけではない。これは、「不自然」の方法論によるところが大きかったのではないかと推察するのだ。「自然性にやぶれて」いかないシステムであり、今でも稼働しているということだ。能の抵抗は続いている。一方演劇はどうかといえば、新劇はもちろん、アングラだって雲散霧消した。現在においては公共劇場でやる演劇は、ほぼ商業演劇と変わらない。そこでは、タレントと呼ばれる人たちが、寿夫が口にした「普通のリアリズムの演劇」を無自覚に目指しては、幼稚な役づくりしている。鈴木の言うところの「方法論の欠如」は、日本の演劇に蔓延している。

『能と現代演劇』と題してみたが、「能」はまだそこにあるが、「現代演劇」というものは、実はもうここにはないのではないか。太田省吾と鈴木忠志の対談がなされたのは、もはや半世紀近く前、私が一歳の時のことである。両氏の舞台を見て演出家を志した者として、感慨深い。今日においても事情はなんら変わっていないのではないか。いや、むしろ〈自然〉だけが〈大自然〉と化していると言ってもよい。だからこそ、まだ「不自然」を保とうとしている能に、彼ら二人がそうだったように、私もつい期待したいのかもしれない。私は観世寿夫の舞台を見ることはできなかった世代である。いや、世阿弥の舞台を見ることができなかった世代だという方が正確だ。しかし、そのことを惜しいとはあまり思わない。なぜならば、おおよその事情は、もうわかっているつもりだからだ。大事なことは、明日の舞台が「不自然」であることでしかない。そこでは、能も現代演劇も同じ目線で見られるはずだ。問題は、「見る/見られる」という状況がどこにあるのかということにある。現代はもしかしたら、誰もが「見ない/見られない」ところまで来ているのかもしれない。ついに役者論から演劇を考えるだけでは事足りなくなっているのではないか。そもそも誰も見ないのだから。今ほど、観客が孤独な時代はない。観客論の必要性を感じる。太田が言った「おれはどこまで行くつもりがあるというふうなことが非常にもてない」という「おれ」とは役者を指してのことだったが、実は客席にいる観客もまたこれに含まれるべきだろう。感情移入とはまた違ったやり方で「おれ」を舞台に見ること。そういう「自分」に遭遇することがなければ、もはや演劇なんて見る必要がない。

「事情」は同じでも、状況は確実に変わっている。やる方も見る方も、神がいるときに個人は必要なかった。だから、神の前では、自己は成立しない。その代表が役者だった。それが美しい姿だった。しかし現代は神をかかえられない。それでも美しいものを見たい気持ちを我々は捨てたくない。なんとか信仰心抜きで。なんとか近代のスター制度抜きで。奉納の代わりに革命が必要なのである。テレビの代わりに劇場が、もう一度、必要なのである。もう一度というのは、能舞台以来の、という意味である。そこには、もちろん新しい能と新しい演劇があり、新しい観客が集うのがふさわしい。そのために、私は、今しばらくは手ぶらでのこのこと能楽堂に行くつもりである。

三浦基

引用
太田省吾『飛翔と懸垂――太田省吾演劇論集』而立書房、1975年
観世寿夫『観世寿夫 世阿弥を読む』平凡社、2001年

  • 三浦基(みうら もとい)
    三浦基(みうら もとい)
    1973年生。劇団「地点」代表、演出家。桐朋学園芸術短期大学演劇科・専攻科卒業。96年、青年団入団、演出部所属。99年より2年間、文化庁派遣芸術家在外研修員としてパリに滞在する。帰国後、地点の活動を本格化。2005年、青年団より独立、活動拠点を東京から京都へ移す。同年、チェーホフ作『かもめ』で利賀演出家コンクール優秀賞受賞。06年、ミラー作『るつぼ』でカイロ国際実験演劇祭ベスト・セノグラフィー賞受賞。07年、チェーホフ作『桜の園』で文化庁芸術祭新人賞受賞。17年、イプセン作『ヘッダ・ガブラー』で読売演劇大賞選考委員特別賞受賞。その他、京都府文化賞奨励賞(11年)、京都市芸術新人賞(12年)など受賞多数。12年にはロンドン・グローブ座からの招聘でシェイクスピア作『コリオレイナス』を上演するなど海外でも高く評価されている。著書に、『おもしろければOKか? 現代演劇考』(五柳書院、2010年)、『やっぱり悲劇だった「わからない」演劇へのオマージュ』(岩波書店、2019年)。

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