レポート

歌舞伎俳優 中村壱太郎さんインタビュー

聞き手:広瀬依子

今、「最も美しい女を演じている」という定評のある歌舞伎役者・中村壱太郎さん。日本舞踊の吾妻流七代目家元としても活躍しています。2019年2月11日に京都芸術センターで行われた「継ぐこと・伝えること62 〈享楽×恍恍惚惚-男舞・女舞-〉」にご出演いただいた際に、歌舞伎への思いやご自身のことをお聞きしました。

――壱太郎さんは歌舞伎俳優としてはもちろん、日本舞踊吾妻流の家元としてもご活躍ですね。歌舞伎と日本舞踊はどのように関連しているのでしょうか。

歌舞伎は男性だけで演じる舞台です。女性役は女方がつとめるわけですが、どうして女性に見えるかというと、そこに踊りがあるからです。歌舞伎の始まりは出雲の阿国の踊りです。それが歌舞伎に発展していきましたから、歌舞伎の真髄には踊りがある。ですから私も舞踊を大事にしています。

日本舞踊には動きの基礎がつまっています。たとえば腰を折るとか足を内股にして膝と膝をくっつける等、いろいろな動作があることで女性らしく見えてくる。背筋も、ふんぞり返っていても前かがみでもいけません。首、顎を引く。背中の中心に線が一本入っているように背筋を伸ばし、まっすぐ腰をおろす。そして肩甲骨を寄せるようなかたちを作ります。

このような体の使い方は、お芝居をする時にも応用できます。物を取ったり指したりする時、自然と脇が締まったり内股になったりするんです。歌舞伎をご覧になる時は、このような女方の細かい動きにも注目していただけたら嬉しいですね。

ただ難しいのは、女方は女性になりきるのではなく、女らしさを追求するというところです。たとえばメイクでも、つけまつげやアイラインなど、今風にしようと思えばいくらでもできる。近頃はいろんな化粧品がありますので、僕も新商品や絵の具等を使うことがあります。でも、出来上がりは古風なかたちを踏襲しています。女形の伝統を守りながら、女性らしく見えることが大事なんです。

――切っても切れない関係とも言えるのですね。壱太郎さんはいつ頃から舞踊を始められたのでしょうか。また、吾妻流の特徴をお教えください。

僕は祖父が坂田藤十郎、父が中村鴈治郎、母が日本舞踊吾妻流宗家の吾妻徳穂という環境に生まれました。物心つく前から歌舞伎の舞台に立ち、踊りの稽古もしていましたが、嫌いになったことは一度もありません。両親が強制しなかったからだと思います。高校も大学も普通に通い、学業と重なれば舞台をお断わりすることもありました。自由に過ごせたことは、ありがたかったですね。

2014年に吾妻流七代目家元を継承し、吾妻徳陽を名乗ることになりました。同時に、それまで家元をつとめていた母が宗家となり、二代目として吾妻徳穂を襲名しました。吾妻流は総勢約700人いるかいないかで、日本舞踊の中では小さい流儀です。広く浅くよりも、狭く深くがモットーです。そして約99%が女性。残り1%の男性である私が家元なんですよ。

流儀の特徴をひとことで言い表すのは難しいのですが、ドラマ性が高いことがあげられます。舞踊には意味のない振りは、まずありません。吾妻流では、より深く意味を掘り下げる振付がされています。また女性が踊ることが前提になっていますので、体の動かし方、身のこなしがきついほどいい。耐え忍ぶようなイメージです。歌舞伎舞踊であれば扮装や拵えに助けてもらえる部分がありますが、素踊りはそれが難しいですね。

吾妻流の歴史は江戸時代にさかのぼります。江戸時代はいろんな座があり、座元がプロデューサーを兼ねていました。そして座と役者の間で1年とか3年とか期間ごとに契約をしたんです。その座の中には振付師さんや顔師さん、衣裳さんなどの裏方さんもいました。吾妻流創設者の初代吾妻東蔵も、そのような振付師だったと言われています。

しかし、残念ながら吾妻流は一度途絶えます。再興したのは僕の曾祖母である初代吾妻徳穂です。諸説ありますが、曾祖母の父は江戸の名優・十五代目市村羽左衛門だと言われています。また、十五代目羽左衛門は実は外国人という説もあるんですよ。そんなことを考えると不思議ですし楽しいですね。曾祖母の父は江戸の名優・十五代目市村羽左衛門です。また十五代目羽左衛門のお父さんはフランスの軍人ルジャント将軍、僕の体の中にもほんの少し外国人の血が流れていると思うと不思議です。

初代徳穂は積極的にさまざまなことを行いました。大きな功績は「アヅマカブキ」と名付けられた公演で、女性の歌舞伎舞踊を追求しました。以前の歌舞伎は、今以上に海外公演の機会が多かったんです。その中で曾祖母は、戦後まもなく、国内に加えて海外40か所以上をまわり、「アヅマカブキ」で舞踊を広めていきました。曾祖母の経歴を見ると、3回結婚しています。頻繁に海外に行っていたのですから、もしかしたら外国の人と結婚していたかもしれない。そうすると、その後、日本で活動していたかどうかもわからない。交通事故に遭ったため泣く泣く日本に帰ってきたそうですが、そのまま滞在していれば、母も僕も生まれていませんでしたね。

曾祖母は私が小学2年生の時、89歳まで存命でした。手取り足取りではないとはいえ、稽古はつけてもらいましたので、イキ(呼吸)は覚えています。先年亡くなった歌舞伎役者の中村富十郎は、私の大叔父にあたりますが、五代目として吾妻徳隆を名乗り、一時は吾妻流の家元でもありました。六代目が母、そして私が七代目です。

男である私が女性主体の吾妻流を継ぎ、女性の歌舞伎舞踊をどう踊るのか。この答はまだ出ていません。そんなに簡単に出るものでもないと思っています。ただ、吾妻流特有の味とか動きがある。昔は吾妻流の踊りを歌舞伎の舞台にかけることがあったそうですが、今はありません。ですから、それも視野に入れながら、壱太郎の踊りは何かが違うと思っていただけるようにしたい。そして独特の個性、雰囲気を味わっていただけるようにしたいと考えています。

――家元になられ、吾妻流に対する思いがより強くなられたように感じます。新しい試みや関西での舞踊会なども企画されているのでしょうか。

実は大学時代まで、吾妻流の継承についてはそれほど意識していませんでした。幼い頃から家元になることが決まっていたわけではないんです。ただ、母は僕よりもっと早く、20歳の時に家元になりました。曾祖母と母の間は一世代あいていますので、当時は焦りがあったようです。流儀をつないでいきたいという流れ、再興して80年、曾祖母の十七回忌、私の学業終了が重なったこともあり、家元を継ぐ運びになったというわけです。いろんなタイミングが合ったんですね。家元を継ぐにあたり、改めて母に踊りを習いました。歌舞伎の舞台でいろんな演目を踊らせていただき、自分らしさは出せるようになったのではないか。では、流儀らしさとは何なのか。それを考えたからです。吾妻流らしさというものを受け継ごうという思いを抱きました。

吾妻流を継いでからは、振付もするようになりました。母の振付を基本に、自分に合うように振り付けるのが主体です。自分で作ると絶対忘れないんですよ。歌舞伎ではさまざまな流儀の先生が振付をしてくださいます。よくご一緒させていただく先生の振付は覚えやすいですが、初めてだったりあまりご一緒していない場合は驚きもあります。足のすべらせ方ひとつとっても、吾妻流とは違います。よく歌舞伎にかかる「連獅子」も流儀によって全然違う。踊りに何が正解かはありません。いろんな流儀を経験すればするほど面白いですね。

残念ながら、関西では吾妻流の舞踊会はほとんど開いていないんです。700人といっても全員が職業としての舞踊家かというと、そうではない。今のご時世、踊りだけで生計を立てるのは難しく、ほかに仕事を持っている人がほとんどというのも理由のひとつです。

しかし、機会はできるだけ作っていかなければならないと思っています。僕自身、吾妻徳陽として京都で踊ったのは2016年のロームシアターオープニング事業が初めてです。。日本舞踊がテーマですから、吾妻徳陽の名だけにした方がいいのかどうか、考えました。しかし京都は歌舞伎に馴染みのある方々が多いまちなので、中村壱太郎の名前を前面に出しました。自分で言うのもおかしいかもしれませんが、壱太郎の方が皆さんに知っていただいている名前だからです。もちろん舞踊協会の公演などでは、中村壱太郎の名前は出さずに、吾妻徳陽として出演しています。

このような世界にいて、難しいと思うのは、自分の師匠は祖父であり父であり母であるということです。どこで線を引くか。言い合いになることもありますし、師匠なのか肉親なのか、せめぎあいはあります。ですから、楽屋や稽古場に入れば切り替えるように意識しています。僕は今も東京の実家で暮らしていますが、一年の半分以上は地方公演へ出ています。両親とは離れていることも多いのですが、身内はどうしても甘えが出ますから、どこかで切り替えることが必要です。

――「継ぐこと・伝えること」では私が進行をつとめさせていただきましたが、お客様の熱心さが司会席にも伝わってきました。舞踊はもちろんのこと、スライドや映像を駆使された壱太郎さんのレクチャーも楽しく、もっと時間が欲しいと思ったぐらいです。

京都芸術センターの企画には、これまでにも歌舞伎の先輩方が出られています。「継ぐこと・伝えること」で、自分にはどんなことができるのか。予算などの制限がある中ではありますが、生の踊り、生の音を皆様に見て、聞いていただきたいという気持ちがありました。ですから、今回、長唄、鼓、笙が全部生でできたこと、それに対する反応がお客様から感じられたのが嬉しかったですね。

また、センターは元小学校です。学ぶところですから、エンターテイメントだけではなく、残すということにつながればと思いながら出演させていただきました。いつも歌舞伎を見てくださっているお客さんや興味があるという方、もっと詳しく知りたいという方々が来てくださったのが嬉しかったです。

レクチャーをつとめる機会は割合多いですね。いつもパソコンを利用して、パワーポイントでスライドや映像をご覧いただきながら進めます。スライドの画面はお客さんの層に合わせて硬めにしたり柔らかめにしたり、いろんなパターンを作ります。また場内は薄暗く、講義ばかりだと眠くなることもあります。立ってみたり声をはってみたり、そういう工夫もしています。今回のレクチャーはもっとコアな話の方がよかったかもしれません。次の機会があれば練り直すことも考えたいと思っています。

ノートパソコンはだいたい持ち歩いていますね。大学時代、ノートパソコンがないと授業にならないような学部だったので、自然とそうなりました。今回のスライドは、ロンドン公演から帰る飛行機の中で作りました。

また、今回の「継ぐこと・伝えること」は人数が多かったので、お客さんへの問いかけはしなかったのですが、皆さんと一緒に動いてみるワークショップでは行うこともあります。どこまでついてきていただけるかの判断材料になります。時間が許せばワークショップも考えていたのですが、ありがたいことに想像以上にたくさんの方にお越しいただき、できなかったのは残念でした。これも次の機会があればさせていただきたいですね。

僕にとって京都は馴染みのあるまちです。うちは関西の家系ということもあり、祖父たちが南座の顔見世興行には必ず出演していましたので、幼い頃から冬休みには遊びに来ていたんです。今も公演中に買い物をしたりご飯を食べたりは、南座周辺が多いですね。五花街とのつながりもあり、アットホームな感じがします。また、南座公演の際は鴨川沿いを通って楽屋入りすることも多いです。雪が降ったり、鷺が飛んでいたりという景色を眺め、自然を感じながら楽屋入りできることは、他ではなかなかありません。

時間があればぶらりと散策することもあります。子ども時代は比叡山歌舞伎も行われ、祖父が出演しておりました。夏休み期間なので、僕も出していただきました。公演は夜で、昼間は時間がありましたので、自転車を借りてまちをまわったこともありますね。

――飛行機の中でも仕事をされるとは、ご多忙ぶりがよくわかります。時間に追われることも多いでしょうが、いい舞台を作るために、どんなことを意識していらっしゃるのでしょうか。

稽古は嘘をつかないというのは本当だと思います。特に踊りの場合はそうで、踊れば踊るほどいいものになってくる。実は、芝居は稽古をしすぎるとよくないこともあるんです。というのは、芝居は相手がいますから、一人で稽古をしすぎると相手役と合わなかったり、その日のお客さんの雰囲気に対応できなかったりする。踊りももちろん対応が必要ですが、芝居ほどではありません。ですから踊りこんでおくことは大事です。一人でさらう分には宿泊先のホテルの部屋でもできますし、身体を動かせない環境でも音を聞くだけでも違います。イメージトレーニングみたいなものですね。踊りは1回だけの舞台が多いので、緊張度も高いんです。何度も踊っていないと、本番でいいものにならない。それはすごく意識しています。

いずれ踊ってみたいのは、大曲ですが「京鹿子娘道成寺」。特に歌舞伎の本公演は1か月ですから、そこで挑戦してみたいですね。ほかにも鳴物がたくさん出てくる曲を振り付けして踊らせていただけたらと思っています。

脚本や演出にも関心があります。僕の学生時代には、松本幸四郎さん、尾上菊之丞さん、藤間勘十郎さんが、歌舞伎の若手俳優のために実験的な公演を開催してくださいました。そこで一度脚本と演出をさせていただいたのですが、楽しかったですね。

お芝居はいろんな役がありますし、それこそ一人ではできません。今は与えられた、巡り合った役を一所懸命つとめることが大切だと思っています。ありがたいことに上方歌舞伎の作品もいろいろ経験させていただいています。上方歌舞伎の俳優は人数も少ないです。僕の場合、右も左もわからない高校時代から、愛之助さんが相手役に使ってくださった。辛抱してくださったのだと思います。そのおかげで今がある。ですから、そういうコンビであったり上方のファミリー感というものを大事に、これからも上方歌舞伎を守っていかなければならない。そしてそれを武器に、いろんなところで芸術文化を広めていかないといけないと考えています。

最近、まる1日の休みはほとんどありません。人前で何かするだけが仕事だと思えば時間はあるのでしょうが、われわれは資料を作ったりセリフや振り付けを覚えるのも仕事です。でも、忙しくしているのが好きなんですよ。時間があったら予定を入れます。他ジャンルの舞台を見るのも好きで、よく出かけます。決して勉強しようとは思っていないですね。歌舞伎公演も、自分が出ていない時は楽しみながら見ています。

また、別のジャンルの方との交流は刺激になります。交流も深まって、お互いの舞台を見たりしているんですよ。現代劇やミュージカルも好きなので、機会があったら出演したいですね。洋舞も舞台で挑戦したことがあります。バチカン市国のシスティーナ礼拝堂を模したホール(大塚国際美術館)で行う「システィーナ歌舞伎」に毎年出演していますが、今年は琉球舞踊に取り組みました。ありがたいことにさまざまな仕事をいただけて多忙ではありますが、35歳ぐらいまではこのペースでいいかなと考えています。

舞台以外で好きなものといえば料理でしょうか。今は一日中劇場にいることが多いので、夜しか自由な時間がありません。だったら夜においしいものを食べておいしいお酒を飲みたい。そんなことから料理をするのが好きになりました。行ける時は買い物にも行きますよ。家では残りもので作ります。海外でもアパートを借りた場合、何日間かは料理をします。

――関心の幅が広くていらっしゃるので、これからもさまざまな方々と交流を重ねられたり、今までと違う視点での展開がありそうですね。

去年1月、3月、12月に、坂東玉三郎さんに踊りと芝居を教えていただきました。手取り足取り、ゼロからです。今の歌舞伎は月に約25日間公演をして5日間休む、というスケジュールなので、先輩に習う時間がないんです。そんな中でしっかり時間をとっていただき、教わることのありがたさを身をもって知りました。感謝の念でいっぱいです。

玉三郎さんは本当にすごい方だと痛感しました。今までは、なぜあんなに美しいのだろう、きれいだなあ、と思って見ていました。それが稽古をつけていただき、化粧を見ていただいたりして初めて、こういうことなのかと納得しました。たとえば衣裳。玉三郎さんは演目によっては能衣装の業者さんを訪ね、職人さんに直接お話を聞いて作られる。そのような姿勢から学ぶことも多いです。今後は舞台で演じることに加えて、このような精神も受け継いでいかないといけないと思っています。

他の分野にもすごいと思う方はいらっしゃいます。美術家の草間彌生さんもそのおひとりで、瀬戸内まで作品を見に行ったこともあるほどです。松本幸四郎さんの襲名時には、草間さんがお祝い幕をデザインされました。お祝い幕は日本画家の方が作られることが多いのですが、草間さんのものは前衛的でした。そして、すごいだけではなく意味がある。いろんなかたちでコラボレーションできるし、いろんな方に訴えることのできるお祝い幕でした。とても印象に残っています。

現代アートは世界や現代社会に訴えるものが多く、心打たれますね。先日ロンドンで抽象表現主義のロスコの作品を見ました。ポールに汚い色の布がかかっていて、見た瞬間は、「何これ?」と思うんです。でもその汚さは、メキシコの国境の内戦の汚れた血と人権が表されていると解説に書いてある。そこで、ああ、そうなのか、とわかる。見てパッと反応できないのは日本人だからでしょうか。他の国の人だったら反応できるかもしれません。

現代アートはわからないことが多いですが、僕にとっては昔の宗教画より感じるものがあります。たとえば現代アートの舞台装置の中で歌舞伎を上演したらどうなるのかな、などと考えているんですよ。現代に訴える人権問題や経済問題を歌舞伎にするのはなかなか難しいけれど、そういった働きかけを踊りでできたら面白いですね。

いずれにしても、自分がやってきたことをその場で見てもらえる、成果を見てもらえるのは嬉しいこと。歌舞伎も踊りも生の仕事です。そこに喜びを感じています。

――私たち観客にとっても、壱太郎さんの舞台を拝見するのは喜びです。一層のご活躍をお祈り申し上げます。

  • 中村壱太郎(吾妻流七代目家元 吾妻徳陽)
    1990年8月3日生まれ。1991年11月京都・南座〈三代目中村鴈治郎襲名披露興行〉『廓文章』の藤屋手代で初お目見得。1995年1月大阪・中座〈五代目中村翫雀・三代目中村扇雀襲名披露興行〉『嫗山姥』の一子公時で初代中村壱太郎を名のり初舞台。2007年に史上最年少の16歳で大曲『鏡獅子』を踊る。2010年3月に『曽根崎心中』のお初という大役に役柄と同じ19歳で挑む。現在、女形を中心に歌舞伎の舞台に精進しつつ、ラジオやテレビなどにも活動の場を広げている。また「春虹」の名で脚本執筆、演出にも挑戦中。2013年3月慶應義塾大学総合政策学部卒業。2014年9月吾妻徳陽として日本舞踊吾妻流七代目家元襲名。映画「君の名は。」では、ヒロイン・三葉と四葉の姉妹が舞う巫女の奉納舞を創作。
  • 広瀬依子
    1966年、京都市出身。1989年、総合芸能雑誌「上方芸能」編集部入社。関西発の古典芸能、現代の舞台等についての誌面編集や取材に携わる。2016年、「上方芸能」終刊、フリーでの活動を経て、2018年より追手門学院大学国際教養学部講師。

ページの一番上へ