レポート

講座シリーズ#5「 三味線組歌ってなに? 〜楽譜から読み解く三味線古歌謡〜」レポート

日程:2018年12月23日(日)
会場:京都芸術センター 講堂
講師:井口はる菜(関西外国語大学外国語学部講師)
演奏:後藤愉香 鈴木由喜子 髙橋要 林美恵子 林美音子 百武史子 吉田則子 (五十音順)

 TAROは、専門家や活動団体、研究機関とのネットワークから毎回異なる講師をお招きし、独自の切り口で伝統芸能文化を紹介する講座を開催しています。
 今回は、講師に井口はる菜氏をお招きし、柳川流三味線組歌の復原についてのお話と演奏をしていただきました。

1.「三味線組歌」とは

井口:まず「三味線組歌」という言葉を、全く初めてお聞きになるという方もおられると思います。三味線音楽は、様々なジャンルに発展して現在まで演奏されておりますが、それら全ての三味線音楽の中で最初に成立した歌曲が「三味線組歌」です。但し「三味線組歌」という呼び名は、箏の組歌に対して三味線組歌と呼ばれるようになった新しい名称で、もともとは「本手」、つまり「本来の手」、三味線音楽の基本となる手を演奏するものという意味で呼ばれていました。さらに「組歌」と言いますから、いくつかの小編歌謡を組み合わせて一つの楽曲になっているというものです。三味線組歌は、検校や勾当などの盲人音楽家たちが、三味線演奏家としての資格を得るために習得しなければならなかった必修曲でした。

そもそも三味線という楽器が生み出されたのは、琉球の三弦楽器・蛇皮の三線が日本本土に伝わったことに端を発します。鉄砲やキリスト教が伝来した少し後の永禄年間のことで、今からおよそ450年ほど前でした。その三線が猫皮の三味線に改良されて、撥で演奏するようになりました。その当初の姿を遺しているのが、京都で演奏されている「柳川三味線」という、とても棹の細い三味線です。本日演奏いたしますのも、全て柳川三味線でございます。箏では八橋検校が有名ですが、八橋と同時代に活躍した三味線の名手に柳川検校がおりまして、柳川検校からの流れを汲む三味線組歌が、柳川流としてここ京都に伝えられております。また、柳川検校の孫弟子にあたる野川検校が少し改編して伝えた三味線組歌は、野川流として大阪に伝えられており、それらが三味線の二大流派ということになります。柳川流では十二月新組を除いて全34曲、野川流では全32曲の三味線組歌が確認できますが、柳川流で現行する曲はわずか6曲にとどまっているというのが現状です。

今回、私が三味線組歌を復原するために参照したのは、旧京都府立総合資料館、現在の京都学・歴彩館が所蔵している複数の三味線組歌楽譜資料です。それらの楽譜は全て手書きの写本です。実はそれらの殆どは、京都當道会の会長であった津田道子先生が所蔵しておられましたが、亡くなられた後に資料館へ寄贈されて、現在では複数の楽譜資料を読み比べることができるようになりました。これらの資料には、柳川流の全34曲の楽譜と、それ以外にもいろんな情報が書き残されております。まだ全てを解読できたわけではありませんが、今回は、現在伝えられている柳川流の三味線組歌と、古い楽譜資料から復原した楽曲の両方をお聴き頂いて、三味線組歌がどのようなものかをお伝えできればと思っております。

まず最初に、津田道子先生がすでに復原なさって、現在も演奏され続けている《千代の恵》という曲をお聴きいただこうと思います。

実はこの《千代の恵》は、三味線組歌の中の最も古典の曲に分類される表組第1曲として伝えられる《琉球組》と同時演奏ができるように作られています。《琉球組》は、歌詞の中に「琉球」という言葉も、琉球にまつわる言葉も出てきませんが、なぜか《琉球組》と呼ばれる不思議な曲です。これにつきましては、第1歌の歌詞が、琉球の「柳節」(やなじぶし)の歌詞と共通する部分が多く、三味線のもとになった三弦楽器が琉球からやってきたと言うことなどから、何らかの関連が認められるというものです。この曲は、柳川流に現在も伝承されています。

一方、それと合奏することができる《千代の恵》の歌詞もご覧いただきますと、第4歌、第7歌は《琉球組》と同じですし、第3歌、第5歌の後半も《琉球組》と共通しています。また、《千代の恵》の第1歌の歌詞にあります「柳は緑、花は紅よ・・・」という歌も、実は琉球の「柳節」に歌われる歌詞ですから、これまた同じような関連性が認められる歌です。《千代の恵》のほうは、深草検校が作曲した新しい組歌で、大阪の野川流の伝承には無い曲です。今回の研究対象の楽譜資料のうち、寛政本『五線録』以降に楽譜が記録されておりまして、それらの資料をもとに津田先生が復原なさいました。本日は、津田先生に直接教えを受けられた吉田則子先生、髙橋要先生、鈴木由喜子先生に《千代の恵》を演奏していただき、今回の私の研究にご協力いただきました林美恵子先生とそのご門下の百武史子先生、後藤愉香先生に《琉球組》を演奏していただきます。

《琉球組》

〔前弾〕

1〽︎比翼連理よノ、天に照るツ月は、十五夜が盛り、あの君様は、ソレ、いつも盛りよノ。

2〽︎思いを志賀のエイ、松の風ゆえに、死なで焦がるる、焦がるる。

3〽︎深山颪の小笹の霰の、イヨ、さらりさらさら、さらさらと、したる心こそよけれ。

4〽︎険しき山の、九十九つづら折の、彼方へ廻り、此方へ廻り、ソレ、くるりくるりと、したる心は、面白や。

5〽︎とろりとろりと、しむる目の、笠の内よりしむりゃ、イヨ腰が細くなり候よ。

6〽︎とても立つ名が止まばこそ、うちへお寄りゃれノウ、柴垣越しに物言おう。

7〽︎大原木大原木、買わい買わいノ、黒木召さいノ、チョウリョウ、フリョウ、オオソレ、ヒュヤラリ、ヒャルロ、イヨアラヨイ、フリョウ、オオソレ、ルリヒリョウ、フリョウ。

《千代の恵》

〔前弾〕

1〽︎千代の恵よノ、柳は緑、花は紅よ、人はただ情け、ソレ梅は匂いよノ。

2〽︎荒野になりとエイ、君に添いなば、京都なるもの、なるもの。

3〽︎笹の葉に降る霰の音の、イヨさらりさらさら、さらさらと、したる心こそよけれ。

4〽︎険しき山の九十九つづらおりの、彼方かなたへ廻り此方へ廻り、ソレくるりくるくる、くると、したる心はン面白や。

5〽︎山の白き、雪かと思て、見れば卯の花、しむりゃ、イヨ腰が細くなり候よ。

6〽︎武蔵野に(この句《琉球》に合ワズ)〽︎萩と薄が恋をして、荻はそよめく、ノウ薄は穂に出て、乱るる。

7〽︎大原木大原木、買わい買わい、黒木召さいノ、チョウリョウフリョウ、ソレ、ヒュヤリャにヒャルロ、イヨアラヨイフリョウ、ソレ、ルリヒョウフリョウ。

続きましてもう一曲、柳川流の《早舟》をお聴きいただきます。これも現行する曲の一つです。三味線組歌の曲はたいてい6歌か7歌ぐらいを組み合わせて一つの曲になっておりますが、《早舟》だけは例外的に16歌から成っており、とても長い歌詞を歌います。それぞれの歌は、楽曲成立当時に歌われていた御船歌です。幕府や藩の船出の時などに歌われた儀礼的な歌で、船頭さんが船を漕ぎながら歌う船頭歌などの類いとは違って、前半を音頭取りが歌い、後半を一同が歌うという、木遣り歌のような形式で歌われた歌です。その御船歌が次々に歌いこまれた、ちょっと特殊な曲になっています。歌詞は非常にたくさんありますが、実は古い楽譜を読みますと、現在伝承されていない歌詞もこの他に幾つか見られますので、実際にはさらに長く歌った可能性もあります。

本日は時間の都合上、幾つか歌を厳選しまして短縮バージョンでお聴きいただきます。曲の繋がりの関係で、3歌、6歌、9歌、10歌、12歌と歌い、その途中から15歌の途中へ飛びまして、結びまで歌うというかたちになります。なお、12歌目については、全ての伝承系統には伝わっていない特殊な歌です。柳川流と、野川流の一部、つまり芸名に富の字を冠する富筋という芸系にしか歌われず、同じ野川流でも菊の字を冠する菊筋には伝わっていないのです。しかも、この歌が挿入される箇所が、柳川流の伝承と、野川流と富筋の伝承とでは異なります。したがって、この曲は、柳川流、野川流のどちらにも伝承されてはいるものの、流派や伝承系統によって歌われる歌詞の編成が少し違ったりしますので、今となってはいずれの伝承の《早舟》も貴重なものなのです。また、途中に早口言葉のようなよく意味のわからない言葉も出てきますが、それが耳で聞いて口で伝えられてきたそのままの歌詞です。それでは、林美音子先生の演奏で《早舟》をお聴きください。

《早舟》(赤字部分を演奏)

〔前弾〕

1〽︎祝いめでたの、嬉しめでたのマタノヨヤ若松、枝もイヨ栄ゆる、葉も繁る。

2〽︎長の長崎の、永の呂宋ルスンの留守すれば、思い出すほどマタノヨヤ宵、宵とイヨ夜中と暁と。

〽︎名古屋山路よノ、肥後や八代、熊本じゃ。〽︎鳥もエ通わぬマタノヨヤ宵。

4〽︎住めばヤッコレサッサ都よ、我が里の。〽︎四角柱の、四角柱のマタノエエソレ、角のヤッコレサッサ、ないこそ添いヨよけれ。

5〽︎花は咲いても梅は開いても、マタノエエソレ花、咲いてもヤッコレサッサ、無益な仇花。

〽︎これが暇の、これが暇のマタノエエソレ文、手にはヤッコレサッサ取らいで、なまなかに。

7〽︎山じゃ谷間の深谷おろしの、木の葉埋れて、柴の庵もマタノエエソレみや、都イヨソレなれどもノ、旅は無益。

8〽︎沖の引く汐に、枝に油を塗る様な、とろりとろりと歌で名乗りても、漕ぐや船方は、エイ上様の御座船か、マタノエエソレ艪で、艪でもイヨソレ、遣らいで歌で遣る。

〽︎お少女少女様は、形は椋鳥で声は鶯で、しゅくしゃかむくしゃか、さんばかしんから、しんたかきゅうたか、ずんばいぼ、眉目が好ござればマタノエエソレ声、声もイヨソレ、言葉もしなやかな。

10〽︎我が引くならば、山じゃ木の根もかやの根も、川じゃ川柳、里に下りて、道の小草も田の草も、人の嫁御も小娘も、綸子細帯さらりさっと巻きあげて、十七七八は、いざや友どちを寄せや集めて、我が音頭で鼓太鼓や、てっこや唐鼓や振鼓、けいけいにからからり、ひゃふらひふら、たらふらや、えええ、さらさらと引かばソレかば、靡きゃるな、マタノエエソレ引く、引くにイヨソレ、靡かぬ草も無や。

11〽︎エイ是より下へは山城川とて、昔由来は、ノウサッテモ川なれど、往けど戻れど、流れはちょろちょろ川の、橋はとも吊りともづなよ、くるりくるりくるり、エッくるり、ヤッくるり、くるりくるりと巻きゃげて、川下さして流れ落つる、落つる、つるつる落つるも、是もご縁かヤ、下は堀川のマタノエエソレ深、深きイヨソレ思いは我独り。

12〽︎つるやつるつると行過ぎて、行けば右手よ戻れば左手、今は出来女郎、小熊様の呼名を申せば、さて西国の中川奥なる、檜の木出格子の瓦葺の、隣の与太郎兵衛が娘、さても目鼻好し、甚だ好しノ、眉目が好ござればマタノエエソレ声、声もイヨソレ言葉もしなやかな。

13〽︎宮へは三里よノ、エイ三里も近三里、廿日市の源左が塗物は、漆で塗らいで、梔子ばかりがさっと一刷、剥いたらずんでんど、その様なイヨソレ塗物は、只は呉るるとも俺は嫌々、嫌で候、やがて剥ぐるに。

14〽︎猿沢の池の水ではなし、鯉が住み候、身の池に。〽︎篠竹の小篠竹の窓の嵐に聞く、君もおよらず我も寝ず。〽︎桜木にうそが止まりてこそ、箏の響きに花は散る。

15〽︎末の月の二十五日に定めたる日はなし、照るも曇るも冬の日の。〽︎山は雪じゃいな、麓は霰、里は雨、浦へ廻るも其様ゆえ。〽︎沖を漕いで通るは、明石の浦の源太が本船か、サテ艪では遣らいで歌で遣る。

16〽︎一の枝引けば、二の枝靡く、靡けや小松の一の枝、つりりん、りつりりん、つりりん りつの、つつりん。

2.《乱後夜》と《晴嵐》の復原

それでは、私の研究内容についてのお話をさせていただきます。

平成28年度から今年度までの3年間、科学研究費の助成を受けまして、科学研究費基盤研究(C)「三味線組歌の楽譜資料の研究―京都府立総合資料館所蔵の資料を中心に―」という研究にとりかかりました。そもそも、私が三味線組歌の研究にとりかかったのは、大学院の修士課程を修了して、京都市立芸大の日本伝統音楽研究センターに非常勤嘱託員として勤めておりましたときに、久保田敏子先生の共同研究会で組歌の歌詞の研究をおこなったことがきっかけです。それとほぼ同じ頃から私自身も野川流の三味線組歌を少し習いまして、そのあたりから三味線組歌に魅力を感じておりました。また、それより前、おそらく大学院在学中に、津田道子先生にもお目にかかっておりまして、柳川三味線のことや、京都の地歌のこと、検校さんのことなどを厚かましくも色々質問させていただき、ご丁寧なお返事を頂戴したりして、いろいろ教えていただいたことがございました。しかしその頃は、まさか自分が三味線組歌を研究するとは思っておりませんでしたので、柳川流の三味線組歌のことについては、当時は津田先生にあまり詳しくお話をうかがってはおりませんでした。その後、私が大学院へまた進学して、結局博士論文は三味線組歌の研究で書くことになりました。博士論文執筆時には、府立資料館の三味線組歌の楽譜ももちろん閲覧しまして、そこに替え歌が書かれていることなどを論文に書きました。

津田先生がお持ちだった資料が、先生の亡くなられた後に当時の府立資料館(現、京都府立京都学・歴彩館)へ寄贈されて、複数の三味線組歌の楽譜資料を比較することが可能になりましたが、実際にそれらを読み比べた研究はまだなかったので、科研費を申請し、採択されたからこそ、古い楽譜を読み比べる研究に着手することになりました。

歴彩館に所蔵されている三味線組歌の楽譜資料としては、次のような本があります。

寛政本『五線録』
・写本5冊
・柳川流三味線組歌34曲を収録
・寛政5(1792)年に成立(吉村嘉達筆録、脇阪勾当以下4人の田中検校の門人が校訂)。明和6(1769)年成立の明和本『五線録』(高谷化善斎中坤編、田中検校城訓校訂)の増補校訂版とみられる
・《千代の恵》や《十二月新組》などの深草検校による作品は、この書に初出する
『三絃独譜』
・写本5冊
・成立年代は不明
・柳川流三味線組歌33曲を収録
・明和本『五線録』と同じ、明和6(1769)年の序文を持つ
・5冊の表紙には、それぞれ「仁以」「儀呂」「禮波」「智仁」「信保」と書かれている
・津田道子師の旧蔵本ではない
『柳川流本手組大意全書』(5冊本)
・写本5冊(但し、資料館所蔵本はそのジアゾ式複写本)
・明治18(1885)年成立
・寛政本『五線録』を古川瀧齋が校訂し、尾本(石田)猪十郎が筆写したもの
・柳川流三味線組歌34曲を収録
『柳川流本手組大意全書』(上下2冊本)
・写本2冊
・明治20(1887)年跋
・柳川流三味線組歌34曲を収録
・5冊本と同じく、寛政本『五線録』を古川瀧齋が校訂し、尾本猪十郎が筆写したものであるが、内容を確認すると、5冊本を2冊にまとめたものではないことがわかる
『柳川流本手組大意全書』表許
・写本1冊
・5冊本だったと思われるもののうちの1冊
『端手』
・写本1冊
・『五線録』『三絃独譜』『柳川流本手組大意全書』のいずれかは不明
『十二月新組』
・写本1冊(但し資料館所蔵本は電子複写本)
・寛政本『五線録』の別冊

歴彩館蔵の楽譜資料は以上ですが、もちろん今回の研究では、明和本の『五線録』も比較対象に挙げました。

これらの楽譜資料のうち、今回、解読して復原しようとしましたのは、中免の《乱後夜》と《晴嵐》の2曲です。実はこの2曲は、歌詞が全く同じで、元禄16(1703)年に刊行された『松の葉』に曲名が掲載され、同時演奏が可能であると書かれています。どちらの曲も3歌から成り、途中に手事と呼ばれる間奏部分が入っているという構成上の特徴が見られます。2曲とも野川流には伝承されていますが、野川流の《晴嵐》は手事が伝承されているのみで、歌の部分は伝承されておりません。柳川流の古い楽譜を見ますと、《晴嵐》の歌の部分も書き残されていますから、これは解読してみる価値があるのではないか、さらには同時演奏が出来たら面白いだろうなと思って楽譜の解読に取り組みました。

これらの曲を解読するのに先立ちまして、《琉球組》《飛騨》《早舟》などの現行曲と、私が古楽譜から解読した譜とを照合して、どこがどう違うか、古い楽譜にあるいろいろなパターンを現在どのように演奏するのか、そしてそれらを現在どのように記譜しているのか、などを確認しました。そうした作業をふまえて、実際に全ての本の《乱後夜》と《晴嵐》の楽譜をひたすら読みました。

3.古楽譜の解読

3.1 古楽譜の表記法

実際に読んだ古い楽譜というものにはどのようなことが書かれているかと申しますと、このように書かれています。

『三絃独譜』智仁所収《乱後夜》の冒頭部分(蔵:京都府立京都学・歴彩館)

カタカナで口三味線が書かれているんですね。例えば、これはこの講座のチラシの背景にも使わせていただいた《乱後夜》の楽譜の冒頭部分です。「シャンシャンシャリンシャンテチトン…」と書いてあるのが読めると思います。その右側の所々に朱の点が見えると思います。これが、拍子の最初、小節に区切られている最初の音ということになるでしょうか。ですから、点と点との間が今の1小節分ということになると考えて下さい。この口三味線だけでは音程がわからないので、今度は口三味線の左側をご覧下さい。ここに書かれている情報が、いわゆる勘所を示す記号です。最初の「シャン」は「二カ合」と書かれています。「二」は二の糸の開放弦、「カ」は三の糸の、今の地歌の勘所で言うと「5」にあたる場所だと思われるので、それら二弦を一緒に合わせて「シャン」と弾く、ということになります。これを「合セ撥」と言います。そういうのを一つずつ読んでいくのです。ちなみに、歌については、歌詞が所々に書かれてあるのが見えると思いますが、だいたいの場所に書いてあるだけですので、その歌詞を歌うタイミングの細かい所はわかりませんし、音程も書かれておりません。

その中で、例えば、

「ツン天」とあるところ、最初の「ツン」は「二中」と書いてあるので、二の糸の今の「五」の勘所ですが、「中」という字の所に右の方へ線が出ております。これは「スリサゲ」(1)で「ツン」となり、次の「天」は三の糸の開放弦なので「ツン天」と弾くことがわかります。現在の地歌の楽譜では、その右側の表記で書き表すことになります。ちなみに、例えば「中」という字から左へ線がカーブしていたら、「ツン」と「スリアゲ」(2)になります。

(1)「スリサゲ」=勘所を押さえて弦を弾いた後、余韻の響く内に指を勘所から離さず棹に沿って下へ滑らせながら勘所を移動させて、ポルタメント的効果で音の余韻を上げること。指の動く方向に従って「スリ“サゲ”」と言うが、音高は上がる(高くなる)。

(2)「スリアゲ」=「スリ」という点では先出の「スリサゲ」と同じであるが、勘所を押さえて弦を弾いた後、指を勘所から離さず棹に沿って棹の上部へ「擦り上げる」ことによって、音の余韻を下げること。指の動く方向に従って「スリ“アゲ”」と言うが、音高は下がる(低くなる)。

また、次の画像には「ツンテウ」とあります。

「ツン」は一の糸の「仁」の勘所、「テ」は二の糸の開放弦、「ウ」は一の糸の「仁」を打つ、「ウチ」という手法になります。現在の表記は右側のとおりです。カタカナの「ウ」の読み方ですが、先ほどは弦を左手指で打って音を出す「ウチ指」の手法で読みましたが、時と場合によって考えて読む必要もありました。

口三味線では「トテウチン」と書いてありますが、「ト」は一の糸の開放弦、「テ」が二の糸の開放弦、「ウ」には何も勘所が書かれていないことから、「トテ」と弾いて「ウ」で軽く音を消す音を「ウ」と書いているのだと読み、最後の「チン」は「カ」つまり三の糸の「5」に右へ曲がる線が付いていて、「チン」とスリサゲると読みました。前半の「トテウ」という部分が、いわゆる「ケシウチ」という奏法です。

その他に、同じ「レン」でも次のような奏法の違いがあります。

「天レン」は「天」も「レン」もどちらも三の糸の開放弦ですが、「レン」の所にはカタカナの「ス」が書かれていますので、これは弦を撥で下から上へスクイ上げる「スクイ撥」であることがわかります。

一方、「チンレン」は、「チン」が「三ウ」とあるので三の糸の「2」の勘所を弾き、次の「レン」は三の糸の開放弦で、カタカナの「ハ」が書かれていますから、左手指で弦をハジク「ハジキ」の手法で演奏することがわかります。

古楽譜の解読作業と言いますのは、このように、口三味線でリズムパターンを読みつつ、勘所の情報も読みつつ、スクイやハジキ、スリアゲ・スリサゲなどの情報も確認しつつ、現在の楽譜の形式に書き換えていくという作業なのです。

3.2 古楽譜の解釈

このように私が古い楽譜を読み進める中で、口三味線は諸本において異同が少ないことに気がつきました。意外にも、口三味線は正確に伝わっていたことがわかりましたし、それこそが楽譜の大事な部分であって、書き残された楽譜はそのメモに過ぎないということがよくわかりました。その解読作業は、決してスムーズに進んだわけではありませんでした。大きな壁の一つが、5種類の楽譜の中で指示されている勘所が異なるところです。勘所の表記の問題かもしれませんが、実際にそうしたところを私がどう解釈したか、お話しいたします。

次はその一例です。

左:『五線録』、『三絃独譜』、5冊本『柳川流本手組大意全書』
右:2冊本『柳川流本手組大意全書』
(共に京都府立京都学・歴彩館所蔵)

これは、歌の始まり、「ごや」と歌い出すところの口三味線です。
歌い出す直前に「トンツン」とありますが、その「ツン」の左に書かれている勘所
は、「一ウ」とあるものと「一キ」とあるものとが出てきました。「一キ」とある
ほうが、2冊本の『大意全書』ですので、一番新しく書かれたものだと思われます。
「一ウ」は現在の勘所では一の糸の「仁」にあたります。「一キ」は一の糸の
「イ三」にあたります。同じような箇所はこの曲の中にも何箇所かありましたし、
他の曲にも同様に見つかりました。それで、これと同じような箇所を、現行曲の楽
譜と照合してみますと、なんと、現在の楽譜では一の糸の「イ四」の勘所が書いてあ
るのですね。仮に、「仁」をドとしますと、「仁」と「イ三」と「イ四」では「ド・
ド♯・レ」と半音ずつ音が違います。そこで、私はこう解釈しました。そもそも古
い楽譜と今の楽譜とを同じ感覚で読んではいけないということです。今、我々が使
っている楽譜は、三味線や箏のように日本の音楽の楽譜であっても、五線譜による
音楽教育が行き届いている世の中ですから、縦書きの楽譜であっても、そのルール
は五線譜の記譜のルールに則って表しています。でも、江戸時代に書かれたこれら
の楽譜には、五線譜のルールなんてあるはずがないですし、ありえません。しかも
これらの音楽を演奏した人たちは盲人音楽家たちです。もちろん、譜を書いた人は
盲人さんではなく目の見える人だったでしょうが、三味線を弾くときに盲人さんた
ちが何を意識して弾いていたか、そして何をメモしたか、その結果がこの楽譜だと
考えて、私自身は、盲人さんたちは勘所、つまりポジションを押さえるときのスタ
ート地点に意識があったのではないかと思ったのです。逆に、今の楽譜は、求めら
れる音のほうに意識が働いていて、その音の高さのポジション、つまりゴール地点
みたいなことを記しているということでしょうか。要するに、その問題の表記の音
は、ポジションをスライドさせながら、「仁」から「イ四」まで動かしながら、そ
の途中で撥をおろす、私はそう考えたのです。

それについては、実はしっかりとした根拠もあります。津田道子先生が実際にお使
いになっていた三味線組歌の楽譜に、今の楽譜では「イ四」の勘所が書いてある横
に、鉛筆書きで「仁」から「イ四」へスリの音で弾くことが書かれてありました。
また、津田先生の著書『京都の響き 柳川三味線』にもその奏法について書かれて
います。そういった資料を見て「これだ!」と思いました。それで確信を得て、ス
ライドさせて弾く箇所を古い楽譜から読み取りました。中には「イ三」の勘所を記
した楽譜もありましたが、「仁」から「イ四」への移動の途中で「イ三」の勘所も通
過しますし、もしかしたら「イ三」あたりで撥をおろしたという意味かもしれませ
ん。或いは、「イ三」とあるその楽譜が書かれた頃には、「イ三」の勘所あたりから
スライドさせていたのかもしれません。いずれにしましても、「仁」や「イ三」や
「イ四」の固定音ではなく、「仁」から「イ四」へスライドさせながら弾く音だと解
釈しました。したがって、あとでお聴きいただく復原演奏では、そのようにスライ
ドさせることを意識して演奏いたしますので、そのようにうまく弾けないかもしれ
ませんが、左手で勘所を固定して弾いていないところは、楽譜に問題のあった箇所
だと思ってお聴きいただきたいと思います。

3.3 輪唱風の練習曲

その復原演奏の前に、今回いくつもの楽譜資料を読んだうちで、2冊本の『大意全書』の中に《撥之調》というすごく短い楽譜を見つけました。これは、表組から始まってはで組、裏組、中免なかゆるしと進んで、曲の教習課程の最終ステージとでもいうべき大免おおゆるしの中の秘伝だと思われますが、大免の曲を弾くたび毎に、毎回、前弾きのように弾いたと書いてあるのです。組歌をやる人にとっては練習曲みたいなものの一つかもしれません。面白いことに、それを、甲乙丙丁と複数の人でずらして輪唱のような形で弾くのが大口伝であると書かれています。やったことがなく、そんな発想もなかったものですから、この機会にやってみたいと思います。では、その口三味線を歌いながら弾いてみたいと思います。

これだけの短い旋律ですから、覚えたら歌えるようになりましたけれども、結構難しくて最初はなかなかうまくいきませんでした。こういう輪唱みたいなものを実際、本当に毎回演奏していたんでしょうか?ただ、これってすごい音感教育にもなると思います。口三味線が歌えたら、大変面白いのです。こういうことを組歌の演奏前にやっていたこと自体、我々誰も知りませんでしたから、こうした練習曲のようなものの存在がわかると、また組歌の見方、聴き方、感じ方も変わってくるのではないかなと思いまして、今回紹介させていただきました。

3.4 《乱後夜》と《晴嵐》

それでは、復原曲をお聴き頂く前に、注意点をお話しいたします。

今回の解読結果は、あくまでも井口による解釈であって、おそらく私以外の方がこの楽譜をお読みになれば、また違った解釈をなさって当然だと思います。ですから、本日これから復原演奏をお聴きいただきますが、それは私が解読したものを音として耳で皆様にご確認いただく、ということにすぎません。それだけはご承知おき下さい。

歌の旋律は、今回研究対象とした楽譜には書かれておりません。先ほどの画像にも歌詞だけしか書かれていませんでした。それで、復原した三味線の手から歌えるシンプルな旋律を付けて歌います。もちろん、現行する野川流の旋律も参考にはさせていただきましたが、なるべく復原した手から自然に歌えるような旋律であまり技巧的にならないように心がけました。但し、とても低音域が多く、三味線との絡み合いがわかりにくいということもあり、部分的ではありますが1オクターブ上げて歌うことによって、三味線の旋律と歌の旋律をわかりやすくして歌います。

一応、《乱後夜》と《晴嵐》はそれぞれ独立した曲なので、歌詞が同じであっても、もともとは歌の旋律は違っていると思われます。しかし、そこまでの完全な復原は残念ながらできておりません。従って、どちらも同じ旋律の歌を歌います。これも、本来の姿でないことをご承知おきください。

また、本当は勘所についても、楽譜に書かれているものは現在の勘所の位置とは多少異なるとは思います。楽譜によっても勘所の位置が異なったりするので、今回は敢えて今現在の勘所に当てはめて解釈して演奏いたします。

かなり長い曲ですので、演奏は手事の前までの前歌の部分を先に演奏いたします。そのあと、手事以降についての注意点を申し上げて、残りの演奏をお聴きいただくことにいたします。

《乱後夜》を林美恵子先生と私で演奏し、《晴嵐》を林美音子先生の演奏でお聴きいただきます。

 

《乱後夜》及び《晴嵐》の歌詞(映像は第三歌の箇所のみ)

〔前弾〕

1〽︎後夜ごやも鳴り候ン、横雲ン引くに、ござれ帰ろやれン、我々もン宿へ、三条小橋を歌でろン、とんどろ、ソレ歌で遣ろ。

2〽︎我を忍ばばン、鶴が連理の、一のソレきざはしン、イヨとりを限りにン、イヨお待ちあれ、我も大事の、目を忍ぶン、とんどろ、ソレ目を忍ぶ。

〽︎待つにござらざン、つれなの君やノ、イヨ夢に見んとてン、イヨまど〔手事〕〽︎ろめば、恋は憂いもの、目も合わぬン、とんどろ、ソレ目も合わぬ。

ここまでが前歌の部分となります。歌詞が「まどろめば」の「まど」で途切れているというのも「アレ?」と思うような不思議な歌ですが、「まど」と「ろめば」の間に手事と呼ばれる間奏部分が挿入されます。ここからは大変な演奏になりますので、心してお聴きいただかなければなりません。手事は、《乱後夜》と《晴嵐》それぞれの手がありますが、実は《乱後夜》の楽譜の最後に、「地」という別の手がもう一つ記されてありました。通常「地」というと、「砧地きぬたじ」とか「巣籠地すごもりじ」とか、一定の類型旋律の繰り返しですが、そういう意味の「地」ではなくて、全然別の手なのです。手事自体は二段構成になっていて、「地」と書かれた手は《乱後夜》の手事の最初と、一段目の途中から二段目全体にかけて付けられています。これが《乱後夜》と合わせられるのだったら、《晴嵐》を入れた3部合奏が可能ではないかと思いまして、今回、手事の部分は3部に分かれて演奏いたします。私が「地」の部分を演奏することになります。

そこで起こってくるのが、大変な不協和音の嵐です。ですから覚悟してお聴きいただかなければなりませんが、敢えて、古い楽譜に書かれている通りの音を尊重して演奏いたします。ただ、考えてみてください。日本の音楽は、そもそもハーモニーの音楽ではないのです。学校教育では、音楽の三要素のひとつとしてハーモニーというのを習いましたが、日本の音楽にはそれがないのです。ですから、江戸時代の音楽の中に不協和音という概念そのものがないので、西洋音楽の感覚で言うところの不協和音にあたる音の重なりも、ごく当たり前に何度も出てまいります。そもそも、日本人はそういう音の重なりも気持ち悪いようには聞いていなかったんだと思います。演奏する我々も、大変合わせにくい音の重なりではありますけれども、敢えてそこは楽譜に忠実に再現したいと思います。

手事が終わりますと、「まどろめば」の「ろめば」から後歌が始まります。

では手事以降をお聴き下さい。

 

最後も、「静かに音を消す」という指示が古い楽譜には付いておりました。これが、今回復原した曲でございました。

4.最後に

復原とは言っても、これで江戸時代の音楽を再現したとは私は思っておりません。これは、あくまでも私の解釈した楽譜を音にして聴いてみただけのことです。ですから、江戸時代にこのとおりに弾いていたとは思わないでいただきたいと思います。また、自分で実際に演奏してみますと、まだこの中でもっと吟味したい手だとかフレーズだとか、いろいろ見つかっておりまして、今回の復原曲も、私自身は完全版とは思っておりません。一つの楽曲を復原することはとても難しく、また手間暇のかかるものだということを改めて思い知りました。ですから、津田道子先生がいくつか復原なさったその労力はとても大変なもので、大変な研究だったことがわかりました。改めて津田先生の功績に敬意を表したいと思います。そして何よりも、これらの古い楽譜に目を通しますと、随所に津田先生がお読みになっていた痕跡が見られたのです。本当によくお読みになっていて、あれこれお考えになって研究されていたんだなあと、そのお姿を楽譜を通して見せていただいた気がいたします。

津田道子先生、本日も会場のどこかでお聴きくださっていたかもわかりません。おそらく、「私はそんなふうにはこの楽譜を読んでませんよ。井口さん、もっとしっかりお勉強なさい。」と叱られると思いますが、現時点では、私の力不足でここまでしか解読できておりません。しかし私自身も、本日このように発表させていただいたのがゴールではなく、まだ三味線組歌研究をスタートさせたばかりだと思っております。研究しなければならないことが山のようにあるということだけは承知しております。

復原作業は大変ではありますが、私にそれを挑戦させてくれる原動力はやはり、これら古い楽譜に書かれている楽曲、三味線組歌がとても興味深く面白い曲であることです。だからこそ、私は解読して、弾いてみたいのです。ただそれだけです。その面白味、なかなか御理解いただけないかもわかりませんが、三味線をお弾きにならない方でも、三味線音楽の最も古い歌謡に今のような曲があったのだということをお見知りおきいただければ幸いでございます。今後、三味線組歌が演奏される機会は京都ではまだまだございますから、ぜひ生演奏でお楽しみいただきたいと思います。また、三味線組歌をお弾きになる方々は、弾けば弾くほどに面白い曲ですから、ただの古い曲だとは思わないで数多く何度もお弾きいただいて、次の世代まで伝えていただきたいと思います。

最後に、この研究によって一番実感したことは、書いたものには限界があるということです。楽譜はメモでしかありません。文字資料でしかありません。今回の復原作業で何が一番苦労したかと申しますと、やはりテンポがわからない、速さがわからない、緩急の付け方がわからないということでした。先にお聴きいただいた《早舟》などは伝承されている曲ですから、緩急が付いて大変面白かったと思いますが、最後の復原曲にはそういう緩急は付いて無かったと思います。それは、よくわからなかったからなのです。メモとして書かれている文字資料からは、それを読み取るのには限界があります。しかし、伝承されている曲を師匠からお習いする時には、目の前で演奏して下さる師匠の演奏が一つのお手本となって、どこでどんなふうにノっていくのか、緩んでいくのかを真似することから学んでいけるのです。楽曲を習得し、伝承するためには、やはり楽譜に書かれていない部分が一番大事なことだと思い知りました。

  • 井口はる菜
    上田雅楽香師に入門、生田流箏曲および地歌三弦の手ほどきを受ける。のちに友渕のりえ(雅扇)師に師事。公益財団法人正派邦楽会所属、正派邦楽会大師範(雅号:雅楽衣)。京都創生座同人。龍谷大学文学部日本語日本文学科卒業、奈良教育大学大学院教育学研究科修了、関西外国語大学大学院博士課程(後期)修了、博士(言語文化)。現在、関西外国語大学外国語学部講師、滋賀大学教育学部非常勤講師。

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