「鹿踊のある風景から」(第4回「先覚に聴く」レポート)
日程:2019年3月21日(木・祝)会場:京都芸術センター フリースペース話し手:赤坂憲雄(民俗学者)聞き手:小岩秀太郎(東京鹿踊代表)
「先覚に聴く」は、先んじてあることの重要性に気づき、礎を築いた先覚者からお話をうかがうプログラムです。今回は、東北地方の文化や歴史、風土などを総合的に研究する「東北学」の提唱者として知られる民俗学者・赤坂憲雄さんに、鹿踊をはじめとした東北の民俗芸能についてお話いただきました。聞き手には、東京鹿踊の代表であり、全日本郷土芸能協会の事務局次長・理事でもある小岩秀太郎さんをお招きしました。
小岩 「シシ踊り」は、岩手県だけではなくて東日本全域でなされている踊りです。「シシ」の踊りって何だろうというところをまずは知っていただいて、そこから京都をはじめ西日本との関係は果たしてあるのかというところもお話できればと思っています。
「東北STANDARD 16 岩手県 鹿踊り」
日本のシシ芸能には二つの概念があって、一つは獅子舞、お正月などで舞われる、いわゆるライオンのシシ(獅子)。これは大陸から都(京都や奈良)に伝わったものです。もう一つは「イ(猪)のシシ」や「カ(鹿)のシシ」と呼ばれるように、狩り・食料の対象となる山の獣の「肉」のことを、日本の古語で「シシ」と言っていました。獅子も肉もたまたま同じ「シシ」という発音だったから、混同してしまったのでしょう。
そうした山に住む獣を踊りにしたのが「シシ踊り」だろうとされています。鹿をモチーフにしたシシ踊り(鹿踊)は、岩手県や宮城県に多く伝承されています。新仏(新盆)供養を主な目的としてお盆に踊られていますが、豊作祈念・感謝の意味合いも加わり、神社の秋祭りなどでも踊られます。鹿踊では様々な唄も歌われるのですが、「都」で流行し爆発的に全国に広まったヒットソングが取り入れられているようです。西日本の「太鼓踊り」や関東の風流(ふりゅう)獅子舞(三匹獅子舞など)と共通する歌詞も見られて、びっくりすることがありました。
鹿踊では、足を前に出し踏み込むような動きがあるんですが、これは地に潜む魔を踏み祓う呪術「反閇(へんばい)」に由来しているとも言われています。芸能は見せ物や賑やかしとも捉えられますが、見る人がいようといまいと、その場におわします目に見えないもの、神や仏などに対して唄や踊りを奉じるという感覚を持つことも大事だと思います。
左:「伊勢大神楽」(三重県桑名市) 前足、後足がある「二人立ち獅子舞」いわゆる「獅子舞」
中:「大津獅子踊り」(新潟県村上市) 一人でシシ頭をかぶる「一人立ち獅子舞」いわゆる「風流獅子舞」「三匹獅子舞」「シシ踊り」
右:「行山流舞川鹿子躍」(岩手県一関市) 新仏の家を訪れ供養をする
「東北」はここからとても遠い地です。陸奥―みちのく、といわれるように、中央の都から見れば道の奥、未知の民族「蝦夷(えみし)」が住んだ地です。辺境のそこは、中央からずっと下に見られてきた、負け続けてきた地だと、私たち東北人はそんな空気をそれとなく感じながら、まといながら生きてきました。ですが、本当に東北人はネガティブな人種だったのでしょうか。私はそうは思いません。たしかに災害も多く、飢餓に苦しんだ。しかし、先人たちはそれでもその地で生きていく希望を見出そうとしたに違いありません。その一手段として、祭りや民俗芸能のような人々の祈りと願いを反映したメディアに、楽しさや美しさといったポジティブな思考や教えを盛り込んだ、多様で多彩な芸能を見ると、そう感じさせられます。
私がこのことを強く意識するようになったのは、2011年の東日本大震災以後、壊滅的な被害を受けた東北沿岸の被災地で、次々と芸能が復活したのを目の当たりにしたからです。なぜこんなにこてんぱんにやられたのに、東北人は「おどる」のだろう。なぜこんなにまで「おどり」にしがみつくのだろう。どうして私たちの鹿踊は、お盆になったら亡くなった方の家に行って、わざわざ鹿という獣の格好で、太鼓と念仏をあげながら踊り、供養をするのだろう。そもそも太鼓や念仏のような中央の文化が、辺境とされる東北といつ結びつき、なぜ根づいたのだろう。今私たちの目の前にある「東北」や「中央」や「日本」や「伝統」には、はるか昔から変わらずそうだったというレッテルがべたべたと貼り付けられ、がんじがらめになっている。そんなことに、東日本大震災があってようやくながら私たちは気がつき始めました。
そんな東北の地をくまなく歩き、見て、聴き続けてきた赤坂先生が何を思っているのか、うかがってみたいと思います。
跳躍する行山流舞川鹿子躍
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赤坂 東日本大震災の後、4月の初めから一年半くらいひたすら被災地を歩いていました。その中で、民俗芸能・郷土芸能との遭遇が至る所でありました。僕は政府の復興構想会議の委員を数ヶ月だけやっていました。その時に、東北で開催される夏祭りはどうか自粛しないでもらいたいね、という議論がありました。東北を歩いていくと、驚くような光景にたくさん出会いました。宮城県南三陸町の水戸辺(みとべ)という、志津川湾の一番奥まったところにある漁村に、知り合いと一緒に5月30日に伺いました。ここは津波の被害に遭い壊滅状態となっていたんですが、その時に同じ年くらいの村岡賢一さん(行山流水戸辺鹿子躍[ぎょうざんりゅうみとべししおどり]保存会会長)という鹿踊を伝承されている方にお会いしまして、いろんなお話を聞かせていただきました。まず、この地区の踊り手のグループではお二人亡くなられているんですが、村岡さんのお話では、3月11日に震災が起こったのち5月の連休の頃にはもう鹿踊が踊られ始めていました。村岡さんは避難所で暮らされている時に、津波で流された瓦礫の中に、あるものをひたすら探し回ったのだそうです。何を探されていたのかというと、鹿踊の道具、衣装を探したというんですね。彼は「二つのものを見つけた」と嬉しそうに語ってくれました。一つは、自分が若い頃に海辺で拾った貝殻を加工して作り、奥さんにあげた指輪がケースに入った状態で見つかった。もう一つが、鹿踊の道具だったんですね。5月の連休の頃にそれを洗い清めて、避難所に仲間達と集って踊った時に、道具全部が揃っていたわけではなかったと思うんですけれども、村のおばあちゃんたちが初めて緊張が解けたように涙を流された。そういうお話をうかがいました。
津波被害後の南三陸町
見つかった行山流水戸辺鹿子躍の鹿子頭(ししがしら)
水戸辺と同じ行山流の鹿踊の団体の衣装の背中には、「南無阿弥陀仏」という言葉が入っています。つまり、先祖供養のための芸能なんです。これは、とても重要だと思います。こんなに早い時期に何でこの人たちは鹿踊という芸能を取り返そうとしたのだろうか。食うや食わずの時に始めている。間違いなくそれには、鹿踊という芸能が死者に対する鎮魂や供養をテーマにしていることが大きく関わっているのだと思います。村岡さんのお宅は堤防のすぐ脇にあったので何も残っていない。話を聞いているうちに、なぜ漁村の自分たちが鹿踊をやっているのかわからない、という話題が出てきました。実は、三陸の沿岸にある漁村に暮らす人たちは、海とだけ関わって暮らしているのではなくて、海山のあいだに暮らしているんですね。ですから、みんな背後に里山を背負っていて、そこの木を伐って炭を焼いたりする。あるいは、シカを獲物とする狩猟をやる。海山のあいだの本当に狭い土地に暮らしている人たちは、海とも山とも関わっている。だから、もともとは獲物として仕留めて肉(シシ)として食べていたシカの供養に、人間の供養も重ね合わせていったところから、先祖の鎮魂供養のための鹿踊が始まったのだと思います。漁村の生活は、海にだけ関わっていると私たちは勝手に思い込んでいるけれども、実は狩猟もやる人たちなんです。だから、鹿踊という芸能が海に面した町でも受け継がれてきたということに納得がいきました。
左:南無阿弥陀仏を背負う仰山流前田鹿踊(岩手県大船渡市) 右:行山流久田鹿踊(同県奥州市)
「鹿踊供養塔」というものがございまして、11月に再び水戸辺を訪れた時にそこに行きました。そこに書かれている言葉を平たくすると「生きとし生けるもの全ての命のためにこの踊りを奉納する」という意味合いになります。興味深いのは、人間だけが対象じゃないということです。海山のあいだに生きる人たちは、海で魚や貝や蛸などを採り、その命をいただいて生きているわけですね。山に入れば鹿の命をいただく。「生きとし生けるもの全ての命のために」という言葉が盛り込まれているのはとても大切なことで、人と動物、人と自然との関係がそこに表現されているのだろうと思います。村岡さんからお話をうかがっているうちに、鹿踊の原風景のようなものが浮かび上がってきました。
水戸辺地区の高台に建つ踊供養碑。「奉一切有為法躍供養也」と書いてある。
実は彼の鹿踊は、小岩さんが伝承されている行山流の鹿踊(岩手県一関市・行山流舞川鹿子躍[ぎょうざんりゅうまいかわししおどり])とまっすぐに繋がっているのですが、このことについてはあとでお話します。鹿踊だけじゃなく、剣舞(けんばい)などの東北の夏祭りの多くが死者供養をテーマにしていて、門付(かどづけ)でいろんな家を回ってそこで踊るというかたちになっている。それはおそらく偶然ではない。だからこそ、食うや食わずの大混乱の状況でも、そうした芸能を一斉に再開していた。ですから、我々が首相官邸でしていた議論より、芸能を記憶していた被災者の方たちが、生きること暮らすことの水準で現場でどんどん地域芸能を再開していったことの方が大事です。これは驚きでしたね。そこから、芸能というものが地域社会に対して持っている意味が、いろんなかたちで問われ始めるようになったのだと思います。無残にも津波によって洗い流された、何にもない土地で地域芸能を再び始めたんだ、ということをたくさん耳にしました。
震災から百日目(百か日)に瓦礫の中で踊られた浦浜念仏剣舞(岩手県大船渡市)
仙台の蒲生日向という海辺の地区は軒並み津波にやられてしまったのですが、10月の初め頃に訪れた時、堤防のすぐ傍らにお地蔵さんが祀ってあるのを目にしました。流されたお地蔵さんをその土地の人たちが探し出して、祠は無くなっていたので野ざらしでお祀りしている。おばあちゃんと3歳くらいの女の子とそのお母さんが手を合わせていました。もしかしたら家族に犠牲者がいたのかもしれない。そういう光景があったんです。そこでは、夏の終わりにお地蔵さんのお祭りが催されて、1000人くらいの人たちが集まった。震災でたくさんの犠牲者が出てしまった状況ゆえに、お地蔵さんや鹿踊や神社やお寺がものすごく身近に感じられるようになったのだと思います。それは、自分の人生の中で、宗教的なものが一番頭をよぎったときでもあります。それなしで人はどうやって生きていけるのか、と思わずにはいられなかった。そういう体験を東北でさせてもらいました。
柳田國男:天神の森のシシ踊り
鹿踊の話を少しさせていただこうと思います。柳田國男の『遠野物語』の序文をまず紹介いたします。明治42年(1909)に遠野を尋ねた時の印象を記した一節です。
天神の山の祭で獅子踊りが催されていた 軽く塵がたって踊り子たちの紅い色がひらめいて村の山々の縁に映えた 獅子踊りというのは鹿の舞ひだ 鹿の角が付いた面を被って童子たち五六人が剣を抜いて舞ふものだ 笛の調子は高く歌は低く、近くにいるが聞き難い 日は傾いて風が吹き、酔って人が呼ぶ声が淋しく響き、女は笑って児は走っているが、どうしようもなく旅愁が感じられてしまう
これは、柳田が、遠野の天神山にある菅原神社を馬に乗って訪れた時、毎年8月25日くらいに開催されるお祭りで奉納される鹿踊を偶然目にするのですが、その印象を綴ったものです。この『遠野物語』は、この序文の後に119のお話が記されていて、その最後が鹿踊についてなんです。そこには、柳田がそこに訪れた時からさらに100年前ほど前に書き留められた鹿踊の記録が、全部書き写されているんですね。柳田自身は、この鹿踊という芸能にこの時初めて出会っていますから、それが何を意味しているのかよくわからなかった。柳田はこのように書いています。「獅子踊はそこまでこの地方に古くからあったものではない 中世ごろに他の地域から輸入したものだということを人はよく知っている」。これも実はとても気になっていまして、本当にそうなのだろうか、と思っています。18世紀の半ばに編纂された『遠野古事記』という書物がありまして、そこに鹿踊の祝いの衣装が出てくるんですね。「駒木村の覚助という者が熊野参詣をした時、京都の町辻で鹿踊を目にして、大勢が集まっているところへ行き見物したところ面白く思ったので、その踊りを習って、国元へ帰って若者たちに教え、七月の盆中の慰霊として踊ったのだが、それを他の村の者たちが段々見て聞いて習ひ覚えて踊ったという」。鹿踊の由来については諸説あるのですけれども、これも一つの形かなと思いますね。その後にこうあります。「これは洛外や山場に住む丹波あたりの若者たちが鹿がたくさん集まって遊んでいるのを見て、踊りを作り、鹿頭に角を付けて飾り、洛中に出て踊ったものだとも見える」。京都の丹波あたりの山奥に住む若者たちが鹿が遊んでいるのを目撃して、それを踊りに変えて芸能として受け継ぎ洛中に出て踊ったんじゃないか、と。京都との思いがけない繋がりが指摘されています。
それが史実かどうかは別として、僕が鹿踊に関心を持った大きな理由は、西日本の獅子舞と東日本の鹿踊をどう関連づければいいのかということにありました。山形にある東北芸術工科大学というところで先生をしていたことがあるのですが、そこに能舞台がありまして、そこで何かやって遊べと、大学から言われたんです。僕は鹿踊がとても気になっていたので、中国・韓国・沖縄・西日本の獅子舞、東北の鹿踊、という風にアジアの獅子舞を無理やり集めてイベントをやったんです。その時、東北の鹿踊がとても異様に見えたんです。なぜかというと、獅子舞の獅子はライオンだからです。獅子は非常に強い力を持った神様のような存在で、悪霊を押さえつけて人々を守ってくれる、そういう力がある。獅子舞は、この獅子に扮することで災いを食べる、そういう意味合いなんですね。ところが東北のものは、例えば福島県の彼岸獅子はお彼岸に三匹の獅子が出てきますし、宮城や岩手の鹿踊はお盆の頃の死者供養です。もう一度繰り返します。西日本の獅子舞は「ライオンが吠える」のに対して、東北のものは獅子だけでなくシカやイノシシなんですね。縄文時代の狩猟文化が残っているのです。鹿とか、イノシシとか、熊とか、カモシカといった狩猟の対象を仕留めて食べる。イノシシ、アオシシ、クマシシ、カノシシといったように、食べるための狩猟獣を「○○シシ」と呼んでいるんです。ですから、ライオンの獅子とは違うんです。シシという言葉は、万葉集にも出てくる古語です。イベントをやった時に、芸能史の先生たちを呼んで研究会をやったんです。西の方の芸能史の大家の先生たちは、当然のように「東北の鹿踊は、西の獅子舞の地域的なバリエーションである」と言うのです。芸能史に限らず、東北にある文化は「それは西の方から運ばれてきた文化が東北という地域の風土性と遭遇して、歪んだり変化したりしたものだ」という考え方の枠組みで説明されることが多いのです。でも本当にそうなんだろうか、と僕は感じてきました。
左:中国獅子舞、右:沖縄の獅子舞
岡本太郎:縄文の伝統に根ざして
芸術家の岡本太郎さんのお話を少しします。彼は若い頃パリにいらっしゃったのですが、芸術家たちと交わるかたわら、実はマルセル・モースという文化人類学の創始者の元で学んでいました。そして日本に戻ってきて戦後になって「日本文化とはなんだ」という問いに囚われていきます。つまり、世界中からアーティストたちが集まるパリで暮らす中で、「ローカルなものとグローバルなものがどのように繋がり、また関わっているのだろう、その中で日本文化を背負った自分はどういう立ち位置で自分の芸術を作ることができるのだろうか、自分はあまりにも日本を知らない」ということで、1940年代の末あたりから、15年ほど日本中を歩きまわったんですね。そして、日本紀行の傑作を残し、優れた沖縄文化論を残し、その中で東北にも足を運び、東北の縄文文化に関心を持ち始めます。岡本太郎さんは、宮沢賢治と石川啄木が東北の文学や芸術を代表すると言う考えをとても嫌ったんです。「素朴だけれども歌謡曲みたいな啄木の詩を弄ぶのはよくない」と非常に痛烈な批判をしました。そんな太郎さんが初めて鹿踊に出会ったのは花巻です。その場所を確認しましたが、宮沢賢治が設計した花壇のすぐ下にあった野原で、七月頃お百姓さんの演じ手たちに声をかけてもらったのがきっかけだったそうです。太鼓を鳴らしながらガンガン歌って踊りまくって、野生がほとばしるような激しさなんです。太郎さんは踊っている人たちの中に入り込んで、踊りながら写真を撮ったんです。素晴らしい写真なんですよ。嬉しくて嬉しくて、みんな危ないよって言っているのに、夢中で取り続けた。鹿踊の傑作写真だと思いますね。剣舞よりずっといいね。で、太郎さんは「この鹿踊というのは、東北の縄文時代に狩猟で食べていた人たちが自分の命を野生の獣たちの前に晒した、宗教や呪術や祭りが原型にあったに違いない」と思い込んだんです。
岡本太郎撮影 鹿踊り(岩手)1957年
太郎さんは、アイヌのイオマンテ(熊送りの儀式)のようなものだ、という言い方をした。否定することも肯定することもできない考えなのですが、でも、僕は東北の鹿踊を目撃してこう考えてしまった太郎さんは真っ直ぐで素直だな、と感心しますね。「鹿踊というのは、今でこそ芸能になってしまっている。しかし鹿を中心とする狩猟に密着した呪術を根っこに持っているんだ、そこから発展したものに違いない」という太郎さんの仮説を記憶に留めておいてもいいな、と思います。
宮沢賢治:鹿踊のはじまりへ
宮沢賢治が『鹿踊りのはじまり』という童話を残しています。賢治は明らかに、この鹿踊や剣舞を村の中で実際に目撃して、その時の印象を詩に残したり、童話にするかたちで、自分が得た印象を歴史の中に投影していたのだと思います。「鹿踊りのはじまり」というのは、6頭の鹿たちが遊んでいるのをススキの影から目撃した嘉十という少年がその情景に心奪われるというお話です。「こういう風に鹿踊は始まりました」という語りではないのですけれども、「鹿たちが遊んでいる様子を目撃して心を奪われ、それを模倣して芸能として始めたんだ」という起源譚めいたこのお話に、賢治さんは何かを隠しているのかもしれません。
起源譚としては、もう一つこんなお話があります。空也上人が狩りの犠牲になった鹿の葬いのために鹿踊を始めたんだ、というものです。鹿を救うために身を犠牲にした妻の墓のまわりを8頭の鹿たちが回っているのを見たその夫の狩人が、感動して鹿の皮を着て供養のために踊り始めた、というのもあります。つまり、生きるために鹿の命を奪っている人たちがその供養のために始めたという「念仏供養型」の起源譚です。宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」のような「遊戯模倣型」も、それと同じく、人と動物との境目を越えようとする精神の動きがあります。
行山流舞川鹿子躍が伝わる岩手県一関市舞川地区にある踊供養碑には「春日大明神 高祖空也」と刻まれている
東北から:鹿踊とは何か
改めて、東北を起点として「鹿踊とは何か」を考えると、西日本の獅子舞系の芸能がお祭りの中の一つの演目であったり、正月の門付の芸能だったりするのに対して、東北の鹿踊は死者供養の色合いが強い。この差をわかりやすく見せてくれるのが、四国の伊予にある「鹿(しか)踊り」です。きちんとした歴史的資料はないんですけれど、1600年代前半に仙台の伊達政宗の長男秀宗が伊予に移った時に鹿踊も持っていったのではないか、と言われています。以前、11月2日に見に行ったのですが、稲の収穫を終えた人たちがほっとして感謝をする、そういう時期のお祭りの演目なんです。東北では彼岸やお盆の死者供養の芸能だった鹿踊が、西に持って行かれた途端に「鹿(しか)踊り」となり、感謝やお祝いの芸能に変わる。
南予・宇和島「清水(せいずい)の五つ鹿(いつしか)踊り」
これを初めて見たときびっくりしたんですよ。頭に鹿の剥製のようなものを載せているんです。東北の鹿踊は少しデフォルメしたり、イノシシみたいにしたりしていますから。伊予のものは色もすごい賑やかで、なぜか植物的な印象を受けました。ガンガン太鼓を鳴らして駆け回って、雌のシカを奪い合うような東北の激しい性的で野生的な鹿踊を見てきた目からすると、伊予の鹿(しか)踊りは優しく映ったんです。芸能というものは、異なった文化風土の中に移植されたときに姿を変えていく。その土地の人たちが受け入れてくれる形に変化せざるを得ない。西日本の、水田稲作が優越する社会では、狩猟文化はマージナルなものだからです。東北のように、鹿を見つけてそれを殺してそのシシ(肉)をいただくという文化のないところでは、供養というテーマはリアリティがない。だから、伊予にある他の多くのお祭りの芸能の中にスーッと姿を潜めていって、いつの間にか全く違う芸能へと姿を変えていったのではないか、と感じています。僕は、日本は全ての文化が江戸や京都・奈良を中心にして同心円状に広がっていくわけではなくて、複数の地域風土が担ってきた多様性があると考えています。ですから、ずっと「ひとつの日本からいくつもの日本へ」という風に語ってきました。その中で鹿踊のことも考えてきたので、その観点から今日もお話をさせていただきました。
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対談
小岩 私たちの東北地方では、今の人たちはそれほど狩りをするわけではないですが、私の祖父も鉄砲で動物を獲っていました。岩手県の一番南にある一関市です。東北でもそれなりに暖かいところなんですが山は結構険しくて、私の祖先や同集落の近隣は狩人をやっていた家系で、その関係があったかどうかはわかりませんが、子孫の代になっても鹿踊をやっている家が集まっています。祖父たちが獲ってきた鹿の角が、そのまま鹿踊がかぶる頭(カシラ)に使われるわけです。ちょっとマニアックな話ですが、頭の鹿角の枝は4つです。鹿角は毎年生え変わる毎に枝が増えていくので、4歳の鹿の角でないと東北の鹿踊には使えないんだよ、と言われています。
赤坂 イノシシは福島が北限だと言われてきたんですが、震災絡みかと思いますが、どんどん北上しています。秋田、岩手あたりまで来ていますね。
小岩 イノシシのシシ踊りというのは、岩手にはなかったようです。ですが関東や福島、山形など南の方には多数伝わっています。イノシシ生息域に重なっているという調査結果も出ているようです(『季刊東北学第十二号』「獅子舞とシシ踊り」より)。イノシシが猛威を奮うようになれば、そのうち鹿踊もイノシシ踊りみたいになるかもしれませんね。
赤坂 昔はその二つが重なっていたかもしれないですね。
小岩 この写真は三匹獅子舞っていうものなんですが、イノシシに近い顔をしています。
下名栗の獅子舞(埼玉県飯能市)
赤坂 これは関東から福島のあたりに分布している、彼岸に舞われるものですね。獅子舞の獅子に近いです。
春の彼岸に家々を回る「赤枝彼岸獅子」の頭(福島県磐梯町)
小岩 山形県天童市の高擶(たかだま)というところのシシもイノシシ系だと言われています。こういったものが全部京都など西日本から伝来したと言われると、先ほど赤坂先生がおっしゃったように、都の文化を作った人がこういうものをやってみようと本当に思ったのか少し疑問に思うんですね。であるならば、元々肉を食っていた人たちと、京都や奈良からやって来た人たちがぶつかり合った時に、シシ踊りなどの芸能ができた可能性もあるのではないかと。
高擶獅子踊り(山形県天童市) 撮影:山田雅也(縦糸横糸合同会社)
赤坂 文化の衝突や遭遇ということも考えたくなるんだよね。
小岩 鹿踊の分布で一番南は、伊予、今の愛媛県の宇和島周辺のものです。先ほど赤坂先生がご紹介くださったように可愛らしい見た目をしていますが、東北の岩手の鹿踊は黒い顔をしてドンドンドンドン太鼓を叩いて唄も歌ってジャンプしてという激しいものですね。大都市仙台にも「仙台鹿踊」というものがあって、これも顔面は怖いですよね。すると、仙台を境にして、北と南に分かれているのかもしれないなと感じるところがあります。
左から宇和島の鹿踊、仙台鹿踊、岩手県南の鹿踊
赤坂 仙台のものが宇和島に行ったと言われていますしね。
小岩 自分のところの鹿踊は、8月14日からのお盆に舞うんですが、亡くなった人の家に呼ばれて初盆の供養にいくことが多いです。13曲ほどの「回向(えこう)※」唄を歌います。
※死者を供養すること
赤坂 最初はどんな出だしなんですか。
小岩 「恋しさに 恋しき人のはかじるし」というように、「お墓に向き合って立った時に亡くなったその人の何かが見えた」とか「お墓をずっと見ていると袖が涙で濡れてくる」とか、故人を偲ぶ唄です。「亡くなった人が針の山を越えていくのは大変そうですね」というのもあります。
赤坂 これは行山流(ぎょうざんりゅう)とおっしゃるんですか。先ほど水戸辺というところの鹿踊と、小岩さんの行山流が繋がっているという話をしましたが、そのあたりについて少しお話いただけますか。
小岩 南三陸町にある水戸辺と、私たちの舞川鹿子躍のある地域までは100キロくらい距離があります。水戸辺の鹿踊が、1700年頃に一関市の舞川に伝わったと言われています。舞川に伝わる秘伝書の巻物に、由来や「イノシシやシカが山の上で踊っていた」「お師匠さんたちにはこういう人がいましたよ」など、いろんなことが書いてあるんです。そこに、水戸辺村の伊藤伴内持遠(いとうばんないもちとお)という方が、鹿踊を舞川に伝えてもいいという許可のサインを記しています。舞川では巻物とともに踊りもずっと伝えて来たのですが、実は水戸辺の方では、踊りも巻物のようなものも全て無くなっています。海の近くなので、おそらく今回のような津波など災害が原因だと思うのですが、昭和57年(1982)に赤坂先生も先ほど仰っていた「鹿踊供養碑」が発見されたんです。
行山流舞川鹿子躍に伝わる秘伝書にみえる水戸辺村の文字と伊藤伴内持遠の花押(サイン)
赤坂 旧志津川町誌(現南三陸町)にはきちんと拓本が残されていて、「生きとし生けるすべての命のために」という言葉が刻まれていたみたいですね。
小岩 高台になっているところにその供養碑が建っているんですが、昭和57年(1982)に道路整備した際に、土の中で折れて倒れた状態で見つかったそうです。それを掘り出したところ、「奉一切有為法躍供養也」(生きとし生けるもの一切を供養する)という文言が書いてあったんです。「躍」という字も書いてあったので、「これはもしかすると水戸辺にあったと言い伝えられていた踊りに関する石碑かもしれない」と。岩手の奥地に水戸辺の鹿踊について書かれた巻物が残っていると知った村岡さんが、地域の皆さんと一緒に舞川鹿子躍の師匠たちに踊りを習いに来たんです。「水戸辺の皆さんが元祖なんですから、喜んで先祖返ししますよ」ということで、私の師匠たちが二週間ほど水戸辺に泊まりがけで教えに行ったのが平成の初め頃だと聞いています。村岡さんたちは、当時私が習っていた師匠たちの踊りを見て聞いて覚えました。だから私と同じ踊りが踊れるはずですが、今は水戸辺も、舞川も、東京に住んでいる私の踊りも、それぞれがちょっとずつ変わってきています。
赤坂 芸能って途切れずにずっと続いているものだけじゃないです。水戸辺の周りでは、地誌によれば1710年代だったと思いますが、飢饉や凶作がありました。地震や津波といった大きな災害の時に鹿踊がどうなったのか。人々が生きるかどうかというギリギリの状況に追い詰められたような時に、鹿踊という郷土芸能が必要とされてくる。そういう盛衰の歴史を繰り返しているのだと思います。
東北ってやっぱり自然風土が厳しいし、僕が出会った海辺で暮らす人たちは、必ず家族の誰かが海で亡くなっている。だから、死がすごく近いんだと思う。死者に対する供養や鎮魂を郷土芸能に託す、そういう文化なしではやっていけないんだと思います。
小岩 今回の震災は、改めて、我々が汗だくになってでも踊る意味を考え直すきっかけだったと思います。民俗芸能は岩手・宮城・福島の東北3県だけでも3000団体はあると言われていますが、本当はもっとあると思いますよ。
赤坂 鹿踊に使う太鼓はどこで買われていますか。
小岩 一関の太鼓屋さんだったり、昔は靴屋さんでも買っていたそうですね。革靴を作るところが太鼓も作っていたらしいです。
赤坂 宮沢賢治の「原体剣舞連」(はらたいけんばいれん)という、剣舞を見て作った詩があるのですが、僕はこの原体という村を訪ねたことがあります。実際に剣舞が舞われる季節に行ったら、子供たちがすごく可憐に激しく剣を振り回しながら舞っていました。それも死者供養ですけれども、舞い手の人たちに話を聞かせてもらった時に、家中に太鼓が転がっていました。僕はびっくりして「これは家業として作られているんですか」と、うかがったら、「若い頃から太鼓が好きでよ、いつの間にか太鼓を作ることが仕事になっちまった」とおっしゃっていた。私は大学の民俗芸能部の顧問をやっていたのでそれを買って帰ると、部員の子たちが激しく使うので、すぐに破れちゃいました。
小岩 その方は自分で革鞣(なめ)しをされているんですか。
赤坂 革を供給する業者は別にいます。それを買って太鼓を作るんです。なぜ僕がこんな話を突然したのかというと、西日本の太鼓作りと東日本の太鼓作りは違うんです。つまり東北の太鼓作りの現場には差別がないんです。これはとても大きいことだと思います。つまり、東北には、獣の命を屠って肉や革を使う文化が当たり前に存在する。山村を訪ねても、マタギのおじいちゃんがタヌキの毛皮を身にまとっていたり、動物を殺して鞣してその革を使うことがすごく日常に近い部分にあって、特別な仕事じゃないんです。だから差別の問題は西日本とは全然違うんです。私が東北をフィールドとしてきたテーマには、差別の問題もあったのですが、原体の村を訪ねて太鼓が転がっている家を見た時はびっくりしましたね。
小岩 うちの祖父が狩人だったみたいに、動物を狩らないと食べられない、生きていけないという状況が東北には当たり前にあったので、差別をしている暇なんかなかった。鹿踊の頭も、威勢良く見せるのに自分の家で飼っている馬の尻尾を使うんですね。お師匠さんは、自分でなんでも作るんです。昔は衣装に使う麻も育てていたようですし、鹿頭も裏山から切ってきた木を削って自分たちで漆塗りをして作っていたそうです。
自ら狩った鹿の角を削る
赤坂 みんな自分の「マイ太鼓」を持ってるでしょ。僕は岩手県の遠野にずっと通っているんですが、9月15日前後にある遠野まつりでは、遠野じゅうの鹿踊から剣舞から神楽からさんさ踊りから、全部町中に繰り出します。その時は市役所も休業になるんです。どの職員さんも何かに属していて、「俺は○○神楽だ」「俺は○○の鹿踊だ」みたいになっていて、そして「マイ太鼓」を持っている。
遠野まつり
小岩 そういうのが普通なんじゃないんですかね。このあたりだったら祇園の皆さんだとか、何かしらお祭りでされている方がいらっしゃるから身近な話かもしれません。かつて岩手県の小学校の8割では民俗芸能が教えられていたんですよ。でも、ほとんどの子が嫌いになってやめてしまうことになりますけどね。学校教育の枠組みの中で「教え込む」というのは、自主的な興味や、好き、格好いいという感覚とは別の次元なので、後継者育成のためにはあまり効果がないんだなって最近思います。
赤坂 年を取られた方たちのお話を聞くと、かつては伝統芸能をやっていなかったら村の娘さんたちから相手にされなかった、って言います。やっていると格好よかったんだね。モテるためにやっていたとはっきりおっしゃっていました。
小岩 私もそうなりたいと思っていたんですが(笑)。かつては学校じゃなくて地域の先輩方にお盆中とかに無理やり連れ回されて、そうしている間に「先輩はこのタイミングでいつも格好いい姿を見せるな」「辛い時に優しいことを言ってくれるな」みたいな、ありがたみを感じる機会があったのではないかなと感じてます。無理やり学校でやらなくてもいいのではないかと。
赤坂 遠野だと、祭りの数日間は、神楽組も鹿踊も町中を門付して歩くんですよ。家の人たちはおひねりやお酒、ジュースとかを用意しておいて、次から次に門付がやってくる。その門付によって得たお金が芸能を支える土台になっていた。だから、震災の後それができなくなった時に、芸能を継承していく基盤が壊れてしまった。お寺や神社が津波に流されたりして、氏子や檀家がいなくなっちゃう。氏子や檀家がいれば再建のためにお金を出し合ったりできるのに、それができない状況が生まれていた。岩手県の陸前高田では、ほとんどのものが流されて廃墟みたいになったところに七夕の山車を曳いていくことで、人と人との絆を取り戻そうとするっていうことをやっていました。
震災後の「うごく七夕」(岩手県陸前高田市高田町)
祭りや芸能は、平和な時代には当たり前すぎて「なんで大変なのにこんなんやってんだろ」ってなるんですけれども、村などの共同体が壊滅的な災いによって打撃を受けた時に、人々を繋いでくれるのがこれだったんだ、と。僕の友人に三上敏視(音楽家、神楽・伝承音楽研究家)という男がいて全国の神楽を見て歩いていますが、神楽なんてなんの経済的な利益も上がらない。そんなものに、なんで千年もの時間を連ねてきたのかというと、これはある種の無償の行為なんだよね。本当は村の中では利権とかしがらみだらけなのに、芸能や祭りの時だけはそれを抑えて仲良く絆を取り戻す。祭りや芸能はそういったすごい働きをしてるんだなって思いましたね。
小岩 祭りなどで踊りをすることで、集落の中で嫌いな、気の合わない人たちとも一緒にいなきゃいけない状況をあえて作り出していたんだと思います。その人たちとこれから50年60年と一緒にいなきゃいけない存在なんだと気付かされる機会を、祭りからもらっていたんだなと今感じますね。
赤坂 小岩さんのところでは、女性たちの参加はどうだったんですか。
小岩 最近は女性も踊るようになったんですよ。かつては完全にNGでした。今は女性が、こういった芸能や祭りですごく活躍しています。かつては、中高生くらいの男子たちは、芸能などを通じて地域社会の中で何か役割を得ながら大人になっていったんですが、今の子たちはスポーツだとかゲームにはまりますよね。どちらかというと、今の中高大の女の子の方が、伝統や歴史にはまりやすい印象があります。郷土芸能の演者を見ると、全国的に女子が本当に多いんですよ。
赤坂 女性たちを入れたところが元気になっていって、そうするとまた男子が戻ってきたりだとかね。女性たちがでかい太鼓を叩いているところとか、かっこいいんだよね。女性を伝統芸能から排除していた時代がずっとあったんだけれども、なし崩しのように受け入れるようになると、風景がどんどん変わっていく。変わっていくことを心地よく感じながら受け入れていかないと、全部消えていってしまう。そうすると、例えば民俗芸能をやりたくて他の土地から遠野に移ってくるみたいなことがポイントになってくる。面白いことが色々起こっていますよね。
小岩 地域おこしに女性がどんどん入って来てくださると、おじいさんたちがすごい元気になって、例えば男性の部外者には絶対教えてくれなかった鹿頭の作り方とかを、一から十まで丁寧に教えてくれるんです。おじいさんたちからすれば「男は見て覚えろ」ってことなんですよね。鹿頭に使う角の加工なんかでも、一切男には教えてくれなかったんです。ここ数年、女子が入ってくると、すごくよく教えてくれる。そのおかげで、今の人たちには「見て覚える」ことができなくなっちゃっているのに、「やれ」って言われていた状況が変わって、普通に教われるようになってきている。
赤坂 技術っていうのは「盗む」ものだったんだよね。教えるなんてことはしないし、「勝手に見て盗め」という雰囲気でしたよね。今は、ある村に移住した人が芸能を仲立ちとして村を知って定着するようになって、「一生芸能をやらせてくれるならここにいようかな」みたいなことも起こる時代になってきましたよね。「交流人口から定着人口へ」ということですね。
小岩 ずっと住み続けてもらうことも簡単にはできませんし、かといって毎年通っていただくのも申し訳ないので、ちょっとした時に踊りにこられるような人がいてもいいのかなとも思います。「関係人口」といいましょうか。
赤坂 ある祭りで、すごい目立つ女性がいたんですよ。腰よりもっと下まである髪の毛で、祭りのために伸ばしていると言うんです。
小岩 なんでそうしているんですか。
赤坂 かっこいいから。目立つためにそうしているんです。
郷土芸能も今や女性の時代
質問
質問者1 唐獅子というのが日本にやって来たのは奈良時代あたりだと思うんですが、イノシシやシカはもともと全国にいますよね。例えば葵祭の記念館では、イノシシの被り物をして走ったとか、鹿の頭を戴いて踊ったという話が紹介されています。もともと全国にかなり広く分布していた鹿踊的なものが、後に二人立ちで動きが面白い唐獅子が入ってくることで駆逐されていった可能性もあるのかなと少し思いました。そのあたりについてどうお考えでしょうか。また、東北に唐獅子がどのくらいあるのかも伺いたいです。
赤坂 前半の質問についてですが、例えば、万葉集に「乞食人」(ほかいびと)の歌があります。二つあって、一つは仕留められて解体されて食べられる鹿の視点から一人称で語られるものです。おそらくそういう芸能があったのだと思います。殺される鹿が自ら食べられる姿を演じるみたいなものです。
僕は、獅子舞系と鹿踊系という、今の時点での違いを際立たせる形で問題提起をしたんです。多分そこには共通のものもあったと思いますが、東北の鹿踊という芸能を、西の獅子舞系の芸能の地域的なバリエーションにすぎないという先入観から深く考えるのをやめてしまうのではなく、「なんで東北の鹿踊は死者供養なんだ」というようなことを考えたいです。シシという言葉だって日本の古語にありますし、こういう点を入り口として、もっと色々考えたいと思っています。
小岩 岩手県の宮古というところに黒森神楽という、お家を廻ってお札を配りながら神楽や獅子舞を演じて歩く芸能集団があります。これは間違いなく、西日本に広く伝わる「伊勢大神楽」のような、獅子舞による門付文化の系統だとは思っているんですが、ただ一点違うのは獅子が赤色の顔でなく黒くなっていることです。鹿踊の頭も黒ですが、山伏修験が使う獅子頭は黒色が多く、その獅子舞のことを「権現様(ごんげんさま)」といいます。それを考えると、どこかで東北のアイデンティティを残しておかないといけないと思ってやった結果がそれなのかもしれないです。そういうことってあったんじゃないかなと思っています。清水寺に阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の碑があるのですが、彼らは岩手の一関や水沢あたりにいたと言われている蝦夷の頭領です。征夷大将軍坂上田村麻呂に破れて京都に連れてこられました。こういう西日本の勢力との戦いの中で蝦夷側の証をどこかに残そうとする気持ちや、征夷側の人と馴れ合ってでも生き延びようとする気持ちがどこかにあったのだと思います。そのあたりのことももう少し言及したかったですね。
清水寺の阿弖流為・母禮之碑
赤坂 文化庁が京都に本格移転してきますよね。僕は色んな人たちと議論をする中で「可能性があるな」と感じるようになりました。文化を信じていなかったら、やっていけない地域である京都に文化庁がやってくることの意味は、僕は大きいと思っています。日本列島の多様な地域文化に対する敬意をきちんと抱きながら文化の都として京都が立っていった時には、みんな京都を応援したくなるんじゃないでしょうか。「京都を支えることが自分を支えることだ」っていう枠組みができた時には、日本の文化の風景が変わりうるんじゃないか。京都にしか担えない役割があると、僕は信じているんです。あえて東北の話を延々と話したのは、他の地域文化を視野に入れながら京都のアイデンティティ、あるいは京都を文化の都とする日本文化のアイデンティティみたいなものを一緒に作っていければ面白い時代がくるかもしれないということを考えているからです。
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質問者2 最近、男鹿半島のナマハゲが世界無形文化遺産(2014年「来訪神:仮面・仮装の神々」)として登録されて、色んな文化が掘り起こされて注目されてきています。なんでこんなに四方八方に多彩に文化が発達したのか。歌を歌ったり舞い踊るということが人間の特徴だと思うのですが、いかがでしょうか。
赤坂 共感しますね。僕はそんなに海外に出ないんですけれども、日本は地域文化がまだまだ豊かです。とんでもない曲芸みたいな神楽を、澄ました顔して村の男衆がやっていたりする。誰もお金もらっていないのに一体なんなんだろう、と。そういう地域文化の圧倒的な豊かさ、濃密さが実は我々を支えてくれているのに、今それが忘れられようとしている。日本文化の厚みというのを、信じてもいいんじゃないか。経済一辺倒だった時代がこれから変わっていかざるを得ない、成熟していかざるを得ない。その時に、もう一度、自分たちが祭りや芸能とともに持ち伝えてきた一千年の時間に出会い直すのではないか、と思っています。京都は見事に、現代と伝統を創造的に結びつけてきたじゃないですか。でもこんなに観光客が多いとピンチですよね。京都の方たち、頑張ってください。
小岩 「かっこいい」とか、尊敬や憧れや信じる対象にならないと、楽しく芸能を続けていくことはできないと思いますし、私も「鹿踊かっこいいな、好きだな」と思うようになったところから、近くの先輩方がだんだん素敵に見えてきたり、どうしようもない田舎だと思っていた岩手や東北の地が「かっこいいな」と感じるようになってきました。もしかしたら、そういった視点が、先人たちが伝えようとしていたことだったのではないでしょうか。「文化の活用」を考えることより先に、文化を信じて「俺ら、私たちの文化っていいよな」って素直に言えるようになることが大事だと、若い世代が気づき始めているのかな、と思います。
(編集:小岩秀太郎)
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- 赤坂憲雄(あかさか のりお)
- 1953年、東京都生まれ。東京大学文学部卒。学習院大学教授・福島県立博物館館長。東北学を提唱し、1999年に雑誌『東北学』を創刊。2007年『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)でドゥマゴ文学賞・芸術選奨受賞。『異人論序説』(ちくま学芸文庫)、『境界の発生』(講談社学術文庫)、『東西/南北考』(岩波新書)、『遠野/物語考』(荒蝦夷)、『震災考』(藤原書店)、『性食考』(岩波書店)など著書多数。
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- 小岩秀太郎(こいわ しゅうたろう)
- 1977年、岩手県一関市生まれ。行山流舞川鹿子躍(ぎょうざんりゅうまいかわししおどり)伝承者。(公社)全日本郷土芸能協会(東京都)に入職し、芸能の魅力発信や東日本大震災復興支援、コーディネートに携わる。また、プロジェクト「東京鹿踊」ならびに「縦糸横糸合同会社」(2016年創業・仙台市)を組織し、風土とそのくらしの中で受け継がれてきた地域文化(芸能、祭り、技、食など)を発掘・編集し次代へ繋ぐための企画提案を国内外で行っている。
縦糸横糸合同会社ウェブサイト http://tateito-yokoito.com/