「久多花笠踊」レポート
日程:2019年8月24日(土)
場所:志古淵神社(京都市左京区久多中の町)
レポーター:旦部辰徳
TAROは各地の古典芸能・民俗芸能を取材し、それぞれのレポーターの視点からその魅力を紹介していきます。
今回は、京都市の最北端にある左京区久多の夏恒例の行事である久多花笠踊を取り上げます。久多花笠踊は室町時代から続く風流踊の一つであり、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
「かくれ里」としての久多
花折峠を越えたころ、車のフロントガラスにぽつりと雨粒が降りかかった。いくつものどす黒い雲の塊が、暮れなずむ山間の土地々々にまだらな影を落としながら、南西から北東の方向へ足早に駆け抜けていく。その雲の通い路に沿って、カーテンがかかったようにその先の視界が閉ざされている様も確認された。
明白な強雨の兆候だ。
鯖街道を北進して目的地である久多に近づくにつれて、はたして路肩が水浸しになるほどの驟雨に見舞われた。
ちょうど一年前の同じ日にも、私は花笠祭の取材のために自転車を駆って同じ道行きを辿っている。その数日前、左京区の山間部は台風の猛烈な風雨により大きな被害を被っていた。久多へは鯖街道経由と鞍馬経由の2ルートがあるが、いずれも通行止めとなっていたが、自転車なら、と安請け合いをした。だが見通しは甘く、想像していた以上の傷跡を目にして怖気づき、花折を越えたあたりで市中に引き返した。祭りはこの日の前日に、すでに終っていたことを後日知った。
山肌を雪崩れるような恰好でなぎ倒されたまま放置された大量の杉、傍らを流れる川の川筋が変化したことで半ば水没した側道。あの日に目にした異様が、ほとんどそのままのかたちで、驟雨の中を這うように進む車のサイドウィンドウから再び目視された。一年を経てなお癒えない深傷だったのだろう。不吉な兆候ばかりが目に入る。今回も目的地を目前にして、祭に臨めないのではと危ぶんだ。欲望の対象を、手を伸ばせば届くほどの距離にまで何度も追い詰めようとも、決してそれを手にすることができない——そのような悪夢めいた寓話を何度か読んだことがある。
朝方に保存会に電話を入れたところ、雨天の場合はその程度によって中止することがあるが何時の段階でその判断を下すかは分からないとのことだった。それなら、望みがないわけではない。雲が抜けきるかもしれない。鯖街道を左折して、久多の集落へ入る前川橋を渡る。雨音はいよいよ繁る。花折からは雨のカーテンになって見えなくなっていた、その先のエリアに分入る。
濁々と飛沫いて荒ぶる畑針川の激した水音を耳にしながら、流れをさかのぼるように霧霞の奥へと急な角度で高まっていく側道を駆け上がる。背中を引っ張る重力が確かに感じられ、軽い焦燥が催された。少しずつ水音が遠くなっていく。ものの数分で、谷底は遥かな眼下に、濛々とした水煙を湛えて横たわっていた。日中でさえ木深く翳っているであろう谷地は、平地よりもかなり早く暮れて既に暗い。だが、上へ向かうにつれて、霧はぼんやりと明るんでくる。雨はすでに止んでいて、霧中にはわずかな紫紺色が漉き込まれている。空が次第に近くなってきているのだ。暮れきる前に谷地を抜けたい、と心が逸る。人家の黄色い灯火がまばらに浮かび始めて、不意に、視界が水平方向に大きく開ける。残照の空を所々覗かせる曇り空を頂いた田畑が、山腹に大きく拓かれていた。その際の、山勢が再び兆し始めるあたりに、ここらでは一等灯りがすだいている場所がある。その中を行き交う人影はいまだ疎らだったが、それらの規矩を欠いた不揃いな動めきの中に、圧されたもの狂おしさのようなものが熱っていることが遠目にも伝わってきた。そこが祭りの中心地である志古淵神社(しこぶちじんじゃ)であることと、祭りが無事開催されることが同時に知れた。車内に安堵の声があがった。
豊穣への謝念、息災への祈念
弁柄がすっかり剥落して古色豊かな鳥居の奥に、丸石で組まれた腰の高さほどの礎に坐する拝殿が控えている。その前面に20m四方ほどの前庭が広がっており、その中央部に櫓が組まれていた。祭りまで少し時間あるせいか、境内には遠くから見た印象ほどには人の姿がなく、いまだ重たるく凝った山気に満たされている。それでも祭前の緊張の気配が色濃かったのは、前庭のすぐ脇にある社務所の開け放たれた窓から、法被を纏った10人ほどの男衆がかしこまった様子でじっと円座になっている様子がすぐ伺えたからだ。高ぶった声は聞かれなくとも、男衆はこれから執り行われる神への饗応の一切について黙契するところが既に十分であり、ほとんど無言で繰り返し互いの顔を見交わし合っては各々の自負の程を検しあっているような風情で、静かに確かに熾りつつあった。私は、社務所の板壁を越して滲み出してくる熱が、森厳な境内の暗がりを満たしている山の冷気とぶつかり合って、たちまちに陽炎が顕ちはしないかと、はしゃいだ気持ちで周囲をぱっと見回してすぐ、そんな稚戯めいた振るまいを咄嗟に省みた。いつの間にか、周囲を取り巻く木々が盛んな葉擦れの音を聞かせはじめていた。その葉擦れの音が、今しがた下流で耳にしてきた沢音の記憶と二重写しになった。
久多一帯は、平安中期には既に、都の大寺院が寺院造立の資材を得る杣所(そまどころ)として拓かれており、切り出された木々を筏に組み難所の多い急流を命を賭して下る筏師たちが近世に至るまで勇躍してきた。彼らが水難からの守護を祈念して崇敬してきたのが、志古淵神社の祭神であり久多の産土神(うぶすながみ)でもある志古淵明神だ。花笠踊は、この神による五穀豊穣の成就への感謝として奉じられる奉納祭としての性格と、祖霊追善の盂蘭盆会(うらぼんえ)としての性格を合わせ持つとされる。近隣の五つの集落を上下に分け、それぞれに花宿と呼ばれる家を定め、そこで紙細工の奉納花を灯篭にあしらった祭器である花笠を10日間ほどかけて制作する。祭りの当日に各戸から持ち出された十数基の花笠が集落を経めぐり、社へ謠踊とともに奉納される。
この祭りに参加できるのは男たちだけだ。かつては、春先の筏下りから無事生還して平穏な盛夏を過ごした筏師たちも、他の者ともどもしめやかで和やかな花笠造りの輪に加わったことだろう。背を丸めて手元を忙しくさせている剛の者たちの胸中に広がる凪を、過日の記憶が不意に荒ませることもあっただろう。雪解けで嵩を増した川の瀬を行く筏が、時折岩床に責められて上げる軋み。その際に蹠から脳天にまでずんと突き上げてくる衝撃。そんなきれぎれの記憶が脳裏をよぎるその時、自ずから身が竦み、ほどなく花笠を組む手ぶりが祈りの調子を幽かに帯びてきはしなかったか。今、令和の御世になって、花宿に籠って粛々と花笠づくりを進める男衆の指先を強張らせる記憶があるとすれば、近年連続する台風や大雨の災禍にまつわるものかもしれない。筏流しで水難に遭うことには、その前提に、神威にあえて触れあわよくばそれを踏み越えようとするような、敬虔から涜神へと鋭く対極に向けて跳躍を見せようとする人間意志の裏付けがある。だから筏師の死には、例えば未踏ルートに挑んで滑落したアルピニストの死と同趣の、威光のようなものがほのめいていたはずだ。かつての神=自然はそのように、奪うだけでなく恩賞を与えもした。しかし、今、久多の男たちを取り巻いてある自然は、かつてなく暴力的でただ単に奪うだけのものの様相を、帯つつあるように思う。大型台風や豪雨に度々見舞われるようなことがあれば、人口100人程度の過疎集落では祭の開催さえおぼつかなくなろう。よしんば祭が滞りなく執り行われたとして、五穀豊穣への謝念以上に、息災の祈念が際立ってきはしないだろうか。
闇夜に翻る浄衣
鳥居の前で、真っ白な浄衣に烏帽子のいで立ちの若者二人が威儀を正して、張り詰めたような表情を浮かべて立っている。神官役を務める神殿の二人だ。二人は意を決したように一歩を踏み出すと、後見の役目らしき男たちに後押しされながら、山の上手へ向けて緩やかに続いている坂道を軽快に駆って上がっていく。街灯の少ない真っ暗な道の脇には久多川が流れており、その沢音が時々際立って聞こえてくる。
一行の歩み行きが次第に緩慢になってほどなくすると、大川神社の小さな鳥居が目の前に控えていた。鳥居の先に、さらに小さな本殿が垣間見えている。その中の二畳ほどしかない社殿の中へ、神殿二人は身を籠めると、恭しく神事に執りかかった。蝋燭の灯りが本殿から漏れ出しているが、闇の中へと拡散しきらず、ほど近い周囲に小さな暈状になって滞っている。本殿のぐるりを、密に茂った葉叢が天蓋のように被さっており、その天蓋を支える主柱のように、大杉が聳え立っている。その苔むした樹皮は、大杉が社をゆったりとしずめ守ってきた年月の長さを証立てているようだった。
神事を滞りなく終えた神殿たちは、社殿を出ると、鳥居のもとで境内にむけて深々と一礼をする。ほどなく、今度は一路をさらに北へと馳せ、上の宮を目指す。道が二股に分岐する箇所へ差し掛かると、神殿たちは、進路ではない側の道の虚空へ向けて、律儀に一拝してみせた。祭りに呼ばれない神でもあって、気遣っているのだろうか。
道はいつの間にか田畑の合間を縫うようなかたちになった。人家も疎らで明かりも人気もほとんどないが、どこもかしこも、盛んに蛙が鳴き交わしていた。沢音をときに凌ぐほどに騒がしいその声に囃されるように、一行はますますペースを上げた。
行く手の高みの暗闇の中に、夜灯で際立たされた上の宮神社の鳥居が浮かんでいる。こちらを睥睨しているようで、いやましにも気持ちが急かされる。鳥居前で一礼した神殿たちは、足早に境内を横切って、その先に構えられた小さな社殿の中で畏まって神事を取り仕切った。上の宮神社は、大川神社とは対照的に神木に乏しい。真っ暗な夜天に晒された境内の暗がりの中で、社殿は、寄る辺ない夜の海をたゆたっている小舟のように見える。その印象は、雨の勢いが強まってくるなかで、ますます強められていった。神殿は、神事を最後まで務めあげると、本殿の中を素早くいざって、続く行程に向けて改めて体勢を整えようと忙しくしている。浄衣が盛んな衣擦れの音を立てているはずだが、打ちつけるような雨音がそれをすっかり遮っている。草鞋を履いて本殿を後にした神殿は、規矩を解かれて緩む様子もなく、鳥居の外へとほとんど直線的な無駄のない行進をみせた。その潔い印象は、いささかの押しつけがましさも感じさせず、直後に控えている花笠奉納の絢爛さを期待して高ぶりはじめた私の心を、今いちど畏まらせた。
鳥居の前に2台のミニバンが停まっていた。一台には、後部座席一杯に花笠が積み込まれていたが、それらを降ろす兆しは定かにはできなかった。花笠を手にした男衆たちが境内に次々と練りこんでくる様を思い描いていたが、人がどこかに大勢控えている様子は感じられなかった。この予想外の停滞の中に、何かよからぬ事が起りつつある徴候を読み取ろうと身構えた。その矢先に、もう一方のミニバンの運転席のパワーウィンドウが下がり、中の男が神殿たちに一言声を掛ける。その言葉の端を掴みとろうと耳をそばだてているうちに、神殿たちが勢いよく後部座席に収まってしまった。「上の宮神社と大川神社での奉納踊りは中止だ」誰となく、控え目な声があがって、おおよその事の成り行きが知られた。
森の中で海を擬く
降り募る雨の中を、再び志古淵神社へと下る以外に選択肢がなかったが、戻ったとて、祭りの続きを見ることが叶うかどうかの確証は得られてはいなかった。上の宮神社から南へ下ってほどなく、道脇の古民家の玄関がおもむろに開き、中から花笠を抱えた男衆が幾人も立ち現われた。庭に駐車してあったワゴン車に乗り込むと、あわただしい様子で一気に道を下っていった。行き差しには雨戸を閉ざして人気が全く感じられない様子だったので、そのあまりの意外に胸を打たれたが、まもなく、ここが花宿の一つだったことが理解された。八瀬の赦免地踊りとは異なり、ここでは花宿は公開されていない。外部から秘匿することによって、花笠の祭器としての呪力を堅固にしようとする意志のあらわれなのかもしれない。
志古淵神社の鳥居前では、花笠を積んだ車が複数台並んで止まっていた。神社より下手の集落からの一行も加わっている様子で、前庭脇にある社務所前に男衆たちが大挙して控えていた。幾人もの男たちは酒を片手に持ち、近くに立つもの同士で小さな円を組むように集いながら、抑えた声で何事かについて二三言交わしている。みな顔を十分に赤らめてはいたが、ほしいままに高揚しているわけではない。かといって、無言で立ち尽くしているような、禁欲的な静粛にさいなまれているわけでもない。そのいずれの極にも傾かない、宙吊りにされているような状態がそこにあった。その中の一人が唐突に、「本年度は雨のため、奉納踊りは志古淵神社でのみとなります」と声高に宣った。
にわかに、男衆たちは身支度を整え始める。草履が地を擦る音が盛んにあがって、周囲に気が満ちてゆく。男衆たちは一斉に鳥居の外へと向かい、めいめいが車中に納められていた花笠を手にすると、誰からとなく再び鳥居から練り込んで、順次花笠を拝殿に飾り置いてゆく。閑散としていた拝殿は瞬く間に埋め尽くされたが、花笠にはいまだ灯はともされていなかった。前庭から見上げると、すぐ背後に坐す本殿の献灯をバックライトにして、影絵のように控えめに闇の中に浮かんでいた。
花笠は、下方に布を垂らした「笠」と呼ばれる六角形の台に、四角形の「行燈」を戴く構造になっている。「笠」は松竹梅などの縁起物等を象った「透かし」で彩られ、「行燈」は菊・朝顔・ダリア・バラ等の造花であでやかに装われている。
花笠の本殿奉納を待つ合間に、「やっさ踊り」が催された。前庭中ほどに組まれた櫓を中心に、太鼓の音頭に合わせて、老若男女が輪踊りする。しばらくすると、拝殿の方では男衆たちが花笠に灯をともし始めていた。男衆は灯の入った花笠を受け取ると腰元に添えて、一人、また一人と本殿前に集いだす。20基ほどが一同に会すると、場が一挙に華やいだ。ほどなく、その間を縫うようにして神殿二人が立ち現われ、本殿へ向けて一礼したのち、内陣へ上がって神事を執り行う。男衆は列を整え、本殿にまっすぐ向き合って、神殿の一挙一動をつぶさに見守る格好をとった。神殿が祝詞と神饌を納め終わると、男衆はそろそろと本殿に参じ、灯を吹き消した花笠を内陣に献じてゆく。
花笠は、一定時間納め置かれたのちに、男衆たちの手に返される。男衆は前庭へと折り返し櫓の脇を抜けて鳥居の前に至ると、拝殿の側に向き直って隊列を組み始め、再び花笠に灯りをともしながら次の展開を伺っている。神殿が拝殿に上がり前庭を見下ろす位置に着座するのを合図に、隊は締太鼓と棒状の祭器である「より棒」を持った男らに先導されて拝殿の前に至る。貴人に謁見するように皆が表情を引き締めている前で、より棒の打ち合いが神殿に披露され、奉納踊りの口火が切られる。奉納踊りは、上の組と下の組二手に分かれて舞われる。志古淵神社では通常、下の組が先に3番、続いて上の組が4番踊る構成になっている。年によって番付は異なるが、19年は、下の組による「道行」から始まった。
ほどなくして緩やかに打ち鳴らされた始めた締太鼓に調子を合わせて、謡の朗々とした声が境内に響き渡り、男衆が一斉に身体をゆらゆらと左右にゆすり始める。その緩慢なリズムが、夕凪の海に一人臨んで寄せては返す波をぼんやり眺めているような心地を誘った。
険しい山間にやっと拓かれた局地で、茫漠とした海の広がりを思うことの突飛さを一瞬は省みようとしたが、不思議な得心があって、なかなか簡単には拭えないこだわりになった。森という字と、海原の意味を持つ淼という字、その二字の相似を例にとればあながち的外れなことではないかもしれないぞと、意を得た心地になった。
締めとなったのは、上の組の「鳴子」。いずれの謡も、文句が終始気にかかっていたが、容易には聞き取れなかったので、後日、せめて序の「道行」と結びの「鳴子」だけは押さえておきたいと思い、資料を取り寄せ確かめてみた。すると、とても興味深い発見があった。ともに海と深くかかわるものだったのだ。「道行」では山から海へ嫁ぐ娘が謡われ、「鳴子」では海から山へ嫁いだ娘が謡われていた。
さらに、これらを一対のものと考えると、海山の往還というモチーフを読み取れる。筏を組んで久多川や針畑川を下る。首尾よく淡海(琵琶湖)まで材木を運ぶことができれば、無事に村へ帰ることができる。筏師を生業とする男衆が「道行」「鳴子」の文句を耳にしながら踊るときには、そんなことを祈らずにはいられなかっただろう。息災を願うそんな切実さが、海を擬く身振りとして、踊りの中に自ずから表出されてきたのではないだろうか。今この夏、身を波のようにゆらゆらと揺すって踊りを奉じた現代の男衆は、胸の中で、台風や豪雨に見舞われることなく平穏に暮らすことを願っていたに違いない。
-
- 旦部辰徳(たんべ たつのり)
- 広告会社勤務後、京都大学大学院人間・環境学研究科にて文学・美学を学ぶ。写真展キュレーター、芸術大学での非常勤講師を経て現在文筆業。