レポート

第3回「先覚に聴く」レポート

日程:2018年3月10日 (土)
会場:京都芸術センター フリースペース
話し手:梶谷宣子(染織修復家/メトロポリタン美術館終身名誉館員)
粟田純司(穴太衆積み石匠/粟田建設取締役会長)
聞き手:小林昌廣(情報科学芸術大学院大学教授)

メトロポリタンで染織品の保存修復に携わってきた梶谷宣子さんと、石垣積みの技術者集団「穴太衆」第14代目石匠の粟田純司さんをお招きし、それぞれの修復方法や取り組む姿勢などをうかがいました。

梶谷宣子「染織品が宿している作られた時代と風土の天然の業を、今もその当時の天然の業で永らいを援ける。」

梶谷 私は、博物染織品の保存管理に携わってきました。私の目標は、染織品が宿している、それが作られた時代や風土、天然の技のながらえをたすけるということです。それがこの職業に対する私の心情です。

人間は地球の技による天然の素材を理解し、材質を把握し、かつ翻弄されながらも、日々の生活を機能しやすくする染織品を自ら作り上げる知恵を授けられてきました。それでこそ、染織品を正しく使い、損傷は繕い、何回も作り変えることができるのであり、終りまでありがたく使い切って、土に返します。天然の素材を活用して手仕事でものを作り出す基礎生活環境がありました。ところが、現在はそうした天然を識(し)る生活ではなく、購買と廃棄が当然の生活の仕組みになり、地球を破壊するような生活が日常になりました。

約5億年前から地球の自然が成り立つ過程で、一種類ずつ秩序に従って生成し繁殖してきた天然素材は、人間によって、異なる時代、異なる地域ごとに生活必需品に形を変えられてきました。その多くは土に帰っていきましたが、なかには偶然にも現在まで遺っている博物品があります。それらを、材質と技法の観点を中心に比較対照して、この地球の自然と人間がたどった思考力を養う要素のひとつであった染織技法史の編纂を私なりに試みてきました。

17世紀インド、ムガール王朝の絨毯断片(ニューヨーク市フリック美術館所蔵)の保全対策

私の場合は、1964年にワシントンの染織美術館で1年7ヶ月間研修をした後、ニューヨークにあるメトロポリタン美術館に1966年から2003年まで38年間勤務し、2005年に日本に帰ってきました。メトロポリタン美術館は、文様に関する美術品を集めています。私はものつくりの性分で生まれたので、美術史ではなく材質と技巧の観点から、染織品を先生として染織技法史を追ってきました。40年間、毎日9時から5時までの就業が終わった後にも館の所蔵品を、祝日や休暇には他の美術館の所蔵品、祭で山車を飾る懸装染織品などを検分して、これまで学んできました。

長浜の日枝(ひえい)神社の祭での17世紀オランダ製毛織(版木による手捺染)

私は東京にある自由学園で8年間勉強しました。その間、洋裁科目に加えて、バウハウス系の手織物製作を習い、校内にある縄文遺跡から考古学の初歩を学びました。卒業後は、自宅で機織りをし、自由学園工芸研究所では紙や絹布を染める係を勤めました。1960年代には日本の伝統染織技法の現場を訪ね、手仕事の専門家から材質を扱う心得を学びました。今日でも高等教育機関では学べない染織技法史は、川島織物株式会社にいらした佐々木信三郎先生のところに押しかけていって教えていただきました。先生の謙虚な学ぶ態度や、聡明なご著書の背後にある基礎知識、視点、観察力、思考力、解釈からは、今もありがたく影響をいただいています。そのようにしているうちに、手織物の勉強をしたいと望むようになり、1963年に渡米しました。1年目は数か所で手織物技法を習得し、2年目に訪れたワシントン市の染織美術館で古代染織品の保全という仕事を知って即座にその虜になり、1年7ヶ月間の研修を受けました。そして1966年にニューヨークにあるメトロポリタン美術館で染織品保全係の職につきました。

メトロポリタン美術館には、13の学芸部に属している総計約3万3千点の染織品があります。私は、染織品の展示や移動や収蔵など全ての保全収蔵環境の選択・計画・管理を行い、所蔵染織品の肉眼や拡大鏡での鑑識調査、伝統製作現場での製作過程の観察などをしながら実務を積み重ねました。館では最初の染織品保全管理係でした。仕事を始めて7年目に染織品保全部を独立させ、25年目には、染織品独自の保存環境を整えた染織品総合収蔵室を開設することができました。

2004年イランのビロード織師の仕事に学ぶ梶谷氏

最初の2年間で、フランス製の一揃6脚の椅子貼り用綴織生地の傷みを直して仕上げました。それは今も常設展示されています。最初の5年間は、美術館の鑑賞の目的のために、美術史専門の学芸員の指示に従って保全修復をしました。そのなかで、ものつくり専門の私が管理をする染織品がどのように保全されるべきかを模索しているうちに、次第に自分の仕事の方向が明瞭になってきました。染織品を所蔵している8学芸部には、染織品学芸員がいる部といない部とがあり、さらに学芸部によって、またそれぞれの部員によって仕事の仕方が異なります。美術館全体で約3万3千点の染織所蔵品がありますが、それらが大局的に、また個々にどのようなものであるかを理解して仕事をします。植物繊維なのか動物繊維なのか、人造繊維なのか合成繊維なのか、どのように作られているか等、美術史専門の学芸員とは異なる視点を持って染織品と向き合いました。私の仕事の範囲は、単に破れがあるとか、壁に掛けられるように処理すること以上に、個々の染織品を成しているそれぞれ異なる繊維がどのように変形されて布になり、布からモノになっているのか、またどのような機能で使われて、今に遺っているのかを考える染織技法史にまでわたりました。

梶谷氏が1968年に修復した18世紀フランスの綴織椅子(メトロポリタン美術館)

まず繊維の違いでどうやって保全するのかが決まります。例えば、動物質の繊維と植物質の繊維、繊維の形状と質によって異なる糸になります。染色されるには、繊維と染料の相互の化学性により、限られた色調のみ、厳密には僅か6,7色だけが堅牢に染まり、ほかの色調は空気に侵されて遅かれ早かれ褪色します。それらを系統立てて分類してみると、地球の天然の成り立ちの秩序に当然従っています。人間はそうした天然の時限の仕組みに従うのが基礎であり、博物染織品の保全の仕事をするのにも――天然有機物の保全では時限を踏まえた化学式で考察する――その仕組みのなかで応用処置を図るのが肝要です。そのことは、現場で仕事をしていたからこそわかったのでした。

地球のどの地域の人間も、最初の染織品は、一般的に「麻」と総称されている植物の茎の中で形づくられている、根から各末端部に水分を届ける機能をする細い丈夫な長い靭皮繊維から作ります。成長一周期の終末に本体が稔り終わって枯れて落下した後でも、その長い繊維状のままでしばらく地上にながらえます。例えば古代エジプトに遺っているのは、「亜麻」植物の麻繊維の糸で織られた布です。知恵ある人間は、丈が約1mの亜麻の茎から繊維を採取し、その繊維形態、繊維資質にそぐうように繊維から糸へ、糸から布へと段階的に変形、製作して、生活に役立てたのでした。エジプトの亜麻が原産地のコーカサスでの野産から栽培種へと変えられ、メソポタミアを経てエジプトに届いたのはいつ頃であったのかは各人の想定によりますが、約紀元前5千年のエジプトの遺跡で発掘された厚手の平織の亜麻布片が最古のものとされています。とはいえ、それ以前にはすでに、エジプト地産の野生植物から採取した靭皮繊維を糸にしていたからこそ、新しく製糸の技法を習得すること無く、メソポタミアから届いた亜麻に容易く移り替えられたのであろうと考えます。エジプトでそれを栽培するためには、ファラオの下、多勢の人力が必要な亜麻糸製造の農業生産形態、ナイル河の水、水に混入された天然肥料の恵みといった条件も必要でした。上層階級用の織布に使われた績み糸と、一般用の大量消費のための織布に使われた紡ぎ糸の2種類がエジプト染織技法史にあります。現在遺っている績み糸の亜麻布は前王朝時代からあります。地中海北岸の民族がエジプトを植民地にしたコプト・エジプト時代には、太い重い紡ぎ糸文化となり、労働力のかかる績み糸の亜麻布はもはや終焉を迎えたのでした。その後、8世紀にエジプトに移住してきたイスラム信奉のアラブ民族は、早くにエジプト産の績み糸布に接触があったため、過去の績んだ麻糸の透けて薄い布を知っていて、非常に細い紡ぎ糸を作って織っていたことがわかります。

メトロポリタン美術館では、創設130年来、各学芸部が所有する染織品は、別の所蔵品と一緒にそれぞれの収蔵庫に納められていました。ようやく1995年に、染織品用の収蔵庫にまとめて入れることができました。それまでは私たち染織技術者が方向付けをしていながらも美術史の学芸員が片手間で行なっていた保全管理を、染織技術者が一括して引き受けました。

 

学芸部 旧収蔵庫

1995年開設 ラティセンター(メトロボリタン美術館のテキスタイル・アーカイブ) タピストリー収蔵区域

染織品を手で扱うにあたり一番肝心なことは、染織品に動きを与えないことと、仕事机の養生です。染織品は板や紙状の「支えもの」の上に必ず一旦置き、1㎝動かすにも支えものの方を動かす習慣をつけます。これは保全には必須の習慣です。基本です。また、もし木材や新建材の机の上に染織品を置くと、染織品はその物質性から「机拭き」に変身し、仕事机の汚れを拭くことになります。そこで、机の上面に厚手木綿の布を固着させて張ります。その上にもう1枚の厚手卓掛けをかけて、それを毎日洗濯します。固着木綿布と上掛け木綿は互いの摩擦性で動きません。固定木綿布の下層には、扱い仕事の補助用に、アイロン台用の太木綿布を張ります。この木綿作業面の仕事机上でこそ、美術品の修復や保全作業が安全で能率よく進められます。

博物染織品の世話をする机の面

粟田純司「高さの3分の1はグリを入れろ」

粟田 穴太衆14代を継承しております粟田純司です。穴太を「あのう」って読めたでしょうか。今から約50年ほど前に私が仕事を始めた頃は、「あなた」「あなふと」という呼び方でしか通じていなかったんです。ところが最近、お城ブームなどがありまして、多くの方から「あのう」と呼んで頂いております。この言葉の始まりはいつ頃かといいますと、今から約1500年ほど前、大津に京が置かれた7~8世紀にかけて、渡来系の集団が作った古墳の石組みが、今も我々が積んでいる石の配置が似ているということに由来していると言われています。その後に、最澄が比叡山に天台宗を開いた際に、急斜面での石積みとか、強度を保つために穴太衆が石積みをしたというわけです。強度的にはそんなに強くないですが、比叡の場合には5~10mの高さの石垣もあります。

 

大津市北部地帯の横穴式石室百穴コフングン(6〜7世紀前半)

試行錯誤してやっと方法が確立された時に、信長の比叡山の焼き討ちをしました。ところが丹羽長秀が石垣を壊そうしても、なかなか丈夫で壊れなかったんです。そのことを信長に伝えたら、「そういう丈夫な石垣を築ける職人がいるんだったら呼び寄せろ」ということで、安土城の築城の際に、当時坂本に住んでいた300名ほどの石工を呼び寄せたわけです。その時に中心的に動いた職人が穴太から来ているということで「穴太積み」と文献に書かれています。「穴埋」と書いてある書物も残っています。現在は穴に太いと書いて「あのう」というのが定着しています。

穴太衆積の積み方(布積み)

穴太積みの特徴とはどういうものか、話せば長くなりますので、皆さんがお城に行かれた時に、これは穴太衆だなとわかっていただける点だけお話いたします。

まず、野面石=自然石から始まりまして、穴掘石、割石、そして加工石という風に、時代が新しくなるほど石が変わって来ています。今の大阪城は徳川による大阪城ですので、規格的な石になっていますが、ああいう石つまり加工石が一番新しいと見て頂いて結構です。その前は、山で石を切り出してきていたんですが、そこそこの加工で積み上げています。隙間があるところは小詰石という小さい石を詰める積み方をします。その前になると割石といって、山でごんと割った石をそのままの状態で積みます。それだとゴツゴツした積み方になります。その前が野面石です。そういう流れとして石材は変わってきたんです。

穴太の積み方の基本は、石を横に使って、布を横に並べたような積み方をするから「布積み」と言います。大阪城にも正面を入ったところに大きい石がございますね。あれは「鏡石」といって、各お城に必ず使っています。「鏡石」は邪気を跳ね除けることと、「これだけの石を使っているんだ」という権威の象徴の役割を担っています。石の配置は、大きい石、小さい石、小さい石、また大きい石という風にうまく配置をしないと、大きい石ばかり固まってしまうと小さい石の方に力がかかってきてしまいます。

篠山城 ニの丸の高石垣

篠山城の石垣は下から修復しました。高さが約20mあります。角石(すみいし)の作り方が難しいですね。断面図のような積み方は、比叡山の時にはすでに確立されていたのですが、雨水が中に浸透しにくいように なっています。これを鎧積みと言います。寒冷地で雨水が入って石を持ち上げて石を歪めることを防ぐために、こういう手法があります。

あと、こういう積み方をすると足掛かりができにくいので、敵に攻められにくいという利点もあります。我々が「2番」と呼んでいる約10㎝入ったところ(下図の2番)で石と石の接点があればいいわけで、表面は隙間が空いていてもいいんです。古い石積みほど、それが如実に出てきます。逆に、石垣の表面側の先端だけがついていると、地震の時にずり落ちやすいんです。10㎝ほどの後ろで接していると、10㎝ずれても落ちないということです。そういう意味で、「2番でつけろ」と言われております。

穴太衆積の断面

江戸城 桜田門 モザイク模様のパターン化がみられる切り込み接ぎ

もう1つの穴太積みの特徴は、奥行きを長く持たせるということです。岩国城の天守閣の復元工事に行った時には、石垣の奥行きが約2~3mほどありました。後ろに「栗(グリ)石」というのを入れているんですが、これが見えないところで一番重要な役目を果たしているんです。雨水が入ってきたときに、積み石が土と一緒になって落ちていくのを避けるためにグリをたくさん入れるんですが、高さの3分の1はグリを入れろと言われております。先祖のいう通りに、修復工事には3分の1入れております。

桜田門のような、きちっと石端がついた切り込みハギは、どうしても地震に弱いんですよね。だから、高石垣には向いていないと言われています。

今でいう雲海の綺麗な竹田城のところで、人がたくさん集まって踏みつけたから壊れたという箇所を、今から4年ほど前に修復しました。そんな積み方は昔はしていなかったはずなので、本当は人が踏んだだけでは壊れないと思うんです。しかし、修復の時に後ろを取ってみたら栗石が少なくて、1mくらいは絶対に入れるんですが、50㎝ほどしか入っていなかった。それで後ろの土と混ざって、石が落ちてきたというわけです。それで修復にあたっては、1m入れたので強くなったはずです。ここは重機が入らないので、足場は丸太で組んで、昔ながらの滑車でやりました。若い子はこういうことを知らないので、呼び寄せて色々指導しています。

竹田城跡天守台下部石垣修復工事

アメリカでもずっとワークショップをやっています。私が行かなくなってから4年くらいになりますか。9年ほど前にカリフォルニアから始まって、シアトルでもやりました。テキサスのダラスにあるロレックスの本社ビルが日本の隈研吾さんの設計で、外構工事に日本の石積を使用したいとのご依頼があり、向こうの職人さんと一緒に仕事をしました。

2014年8月 シアトルのクボタガーデンでのワークショップ

ダラスのロレックスタワーでのThe R21 ROLEX Castle Wall Project

新しいやり方の是非

小林 お二方とも、修復をする際に、元の状態に戻すために新しいものはあまり使わないということが共通していますね。例えば、粟田さんの場合は、足場を竹田城で組む時、重機が運べないという止むを得ない問題があるにしても、古いやり方をご存知の方がいらっしゃったからできたんですよね。

粟田 そうですね。今でいうウィンチは昔には無くて、木で作ったもので4人が掛け声を合わせてエイヤって動かすとロープが巻きついて石が上がってくるといった形でしかやれなかったので、石1つ積むのも昔は本当に大変だったと思います。

小林 梶谷先生は、染織の保存修復にすごい昔のものを扱われますよね。新しい技術とか新しい素材を組み合わせて使うことはできないのでしょうか。

梶谷 できるという専門職の方もいると思います。離れて修復をするのではなく、現場で保全管理をしてきた私は、例えば、江戸時代の裂は、基本的にそのものが作られた時代に存在していたものに倣って、今日の材料で作って補います。現代の新素材で作られたものは現物に入れ込まずに支援役で使います。

地球には元々、酸素がありませんでした。時を経て、環境に種々の条件が整って酸素が生成され、機が満ちて、いろいろな生物ができてくる。微生物が発生し、酸素が増えてくると、その条件にかなう動植物が現れてきます。そのように現れてくる順序によってそれぞれの機能が決定され、また制限もされます。その生成時点の機能は天然のもので不変です。例えば、石鹸に関しては、天然ココナッツ油の石鹸を、化学式上では同じ「大豆油変形のココナッツ油」で安価に作ると、脂肪酸としての油性での倣いは同じでも、夾雑物の混ざり具合までは倣っておらず、混入されてはいません。ココナッツの油の石鹸は、インドのジャイナ教徒に土着産の実から作ってもらうか、自分で作るのがいいです。そのように、今日の生産形態で作った製品と元の製品とは異なります。同様に、赤色の染料解析をすると、アリザリンが入っているので「茜」の根の染料だと分析器は出しますが、その他の何百という夾雑物は見過ごされて報告書から除外されているのが現状です。

生きている動物の毛と違って、繊維は、動物や植物から採取された段階で既に命が無く、活生しません。博物染織品を水につけると水が真茶色になります。それはしみが落ちたのではなく、酸化した繊維質が水に溶けているのです。酸化繊維を洗い落すと、色調が一見明るくなり、それは良いことと思われがちですが、洗う前と後では、異なる布に変身します。洗うという判断について、話合える人たちはいるのでしょうか。

小林 先生の話を伺って僕が思ったのは、医学部にいたときに小児科の実習でね、新生児の赤ちゃんが具合悪くなったんですよ。点滴を病院で打ち続けるけれども全然容態が変わらなかったんです。あるときナースが間違えて昔のタイプの点滴を打ったんですね。そしたらみるみる具合が良くなったんです。調べてみたら、昔の点滴の方が雑なんで、新しい点滴からは完全に除去されている亜鉛が含まれていたんですね。そこで初めて新生児の「亜鉛欠乏症」という病気が報告されるんです。

点滴とちょっと話は違うかもしれませんが、やっぱり、純粋とか完全とか、染織や石垣の世界でもありえないっていう理解でいいと思います。石垣だと例えば、熊本城ですね。修復にどれくらいかかるか分からない状態ですが、あの辺りの石垣は、従来まま残っているものだけじゃなくて、明治くらいにやられたものとか何回か積み直しされているんじゃないでしょうか。それを全部古い方法で直してやるのはできないですよね。

粟田 そうですね、コスト的にも大変なんですよ。今壊れている熊本城の石積みですが、築城当時のものと思われがちなんですが、実は明治二十二年あたりに積み直されているんですよ。その箇所が80%くらい壊れている。それを今再構しているんですが、そのままの石材を使ってもまた壊れる。ともかく奥行きがないんですよ。50~60㎝くらいしかない。3つに1つは、1m20㎝くらいある石を補充石として入れた方がいいんじゃないですかという意見も言ったんですが、なかなか我々職人の意見は聞いてもらえない。結局、今の状態の石を使うんだったら、多分私たちはやりませんと言っています。というのは、もし今度また地震あって壊れたら、あれ誰が積んだんや、と、それで大したことないな、と言われると思うんですよ。そうなると、結局、石積みの技術を継承していく意味もないですよね。

皆さん間知石ってご存知ですか。後ろのすぼんだ石なんですけれども、全部先頭の部分だけで乗っているんですよ。間知石が主流になってきて、その職人さんが自分たちが積みやすいように加工して、そして積み直したと。なので、多分、明治の時には穴太衆という職人はほとんどいなかったんじゃないかな、と思われます。

小林 熊本城の築城の時の石積みには穴太衆は関与してなかったと。

粟田 補習工事かなんかには来ていたと思います。ちょうど8代将軍の享保の改革の時で、幕府にお金がなかったもんですから、緊縮政策をやったわけです。そうすると、ここ直したいなと思っても、今でいう補助金が出なくて、ほったらかしになっているところもあるんです。ということで、需要は享保の時代からずっと落ちてきた。

その後、転職などで穴太の職人はほとんどいなくなってしまいます。私のところは、たまたま徳島城にいたんですが、仕事がなくなって、坂本に帰ってきたんですね。坂本は比叡山がありますし、西教寺がありますし、三井寺や石山寺がある。そういう所の石積みを細々とやってきたんじゃないかな、と思っております。私のところは、約300年継承していると言われていますが、歴史を振り返ると、ちょうどその時代と合致しているんです。

小林 今は、息子さんが社長をされていて、15代目ですよね。歴史の長さに比べると、代数が少ないような気もします。代数が少ないのは、もっと前から実はあったんだけれども、城の石垣積みは軍事技術で、秘密事項をあまり公にできなかったから、代数がカウントされなかったんじゃないかっていうのを読んだことがあります。

粟田 だいたいね、昔の人の寿命は人生50年と言います。一人前になるまでに時間がかかって跡を取って、早く亡くなってしまう、というような形でサイクルとしては20サイクルくらいじゃないですかね。

結局、城というのは防御のものですから公にできない。私のところなんかは「なんか書いたものがあるでしょう」とよく言われるんですが、そういうものは全然ないんです。というのは、そういうものがあると、どこどこに通り道があってどう攻めたら一番いいかという情報が敵方に渡る可能性がありますからね。そういうのを防ぐために石工としては、書いて保存するというのは駄目だと言われています。だけど、今になったら、なにか残しておいてくれたら良かったと思います。

「石の声を聴け」

小林 日本から見たらメトロポリタン美術館はいろんなことが進んでいて、なんでも自由に行われているというイメージが当時はあったんだと思うのですが、実際には決してそうではなかったんですか。

梶谷 そのあたりは日本と同じだと思います。日本では、「梶谷さん、梶谷さん」と寄ってきた人でも、私は保全修復職人ですと言うと、表情を落として去る。学会でさえ、学芸員のもとで美術品の立派な模作品を製作する出席者でも、学芸員は「職人」とひとからげに呼び、個人名は出さない。そういった方達は演壇には立たない。そろそろ私のような、ものつくりに携わる人たちも、染織美術品のために、同位置で仕事に従事するべきですが、とにかく言葉や写真や鉛筆では言い表せないことばかりなんです。先人の書きのこしたものは無います。裂一枚一枚によって異なる糸の太さ、柔らかさ、縮み、伸び、濡れ、湿り、乾きなど、全てを言葉無しに扱っているからでしょうか、記述する言葉が無いからでしょうか。扱っている染織品そのものが語っている無形文化を解釈するのが私たちの職業です。美術館界では、高等教育の場でなされる美術史と科学的解釈と共に必須の分野なのですが。

そろそろ私たちが何かものを言った方がいいんじゃないかと思うんですが、とにかく言葉にできないことが多いんです。裂一枚一枚によって糸の太さ長さが全部違うものですから、そんなことまで書かないでやってきたところがあって、私たちの先人も残して書いたものは全然ないんです。何と何を縫い合わせるとか、そこまでしか書いていないですね。どうやって縫い合わせるかということはなかなか書けないです。記述する言葉がないってうこともあるだろうと思いますけれども。

小林 ものを作ったり、ものを扱っている人は、基本的にものそのものが語ってくるというか、色々教えてくれるっていうことですよね。粟田さんは「石の声を聴け」って仰っていますよね。

粟田 私は20の時からこの仕事に入ったんですよ。本来は、10年ほど県庁の土木に厄介になろうかなと思って試験を受けて採用通知も来て、親父が一番に「お前、県庁行くんか」と言って、「10年ほど行ってくるわ」と答えたら、何にも言わずに採用通知をビリッと破ってしまったんですよ。「なんでや」と言ったら、「お前10年経ったら32やぞ」と。「32からこの石積みを覚えようと思っても、お前は一人前にはなれん。薹が立ち過ぎてる。やるんやったら今からやれ」と言われて、いずれはしていかないかんという気はあったんで、じゃあ仕方ないなと思って始めたんです。

ところが、親父が石積みをしているのを後ろから見ながら計算をして、「親父、ここにこんだけの力掛かったらこれ飛んでしまうで」みたいな屁理屈ばかり言ってたもんで、言うたんびにバールで頭かち割りにきたもんです。ところが、親父が「その石ここ持って来い」と言うのをその通りにすると、なぜかピタッと合うんですよ。当時の私の場合だと、メジャーで測って50㎝あるなと思ったら、それに合う石を探しにいって、合わなかったら鑿でバンバン削って無理やり押し込んでたりしました。それだと仕上がった時に、なんか落ち着きのない、なんやもう一つこれはいかんなというような石の座り方になるわけです。

なんで親父はあれできるんかなと思って聞いてみると、「わしはもう石の声が聞こえるわい」と。そんなバカなことあるかと思っていたんです。私も13年ほどやった時、安土城の修復の最終工程の時、親父が出張に行ったので「あと一石か二石だったらお前できるやろ」と任されたんです。たまたま集積した石を、この石どこに持って行こうかなと思いながらずっと見ていると、何回目を移しても目に止まる石があるんですよね。いっぺん親父と同じようにやってみようかなと思って、「その石とって来い」と言って持ってこさせて、据えたら、綺麗に入って行くんですよ。バールで動かしていると、コトッと音がしたような気がしたんです。あれっと思って、「これひょっとしたら音出してくれたんかな」と感じて、それ以降、石に聞くようにしているんです。

ものつくりをしている人、例えば大工さんとかも、みんな一緒の考えだと思うんですよ。大工さんだったら木に聞け、とか多分言うと思うんですよ。左官屋に聞くと、やはり土を練ってこれはやっぱ違うなとか言う人もおられる。

観客 石を選んだり組み立てていくときというのは、一つ一つの石の関係性で見つけていくのか、それとも一番初めに複数の石を見て頭の中でなんとなく複数の石を組み上げているのかのか、石の声を聞くときのスコープはどんなものなのでしょうか。

粟田 まず、新しく石積をするときには、頭の中で完成図を作っていくんですよ。ここにこういう石を置いて、こういう風に持っていったらこういう感じになるなという風に。それから、山へ行って、石選びをする。自分が思い描いたような石があれば、そういうものに印をつけておいて、そして運んで来て積み始めるというわけです。

築城当時は遠くから運んで来れないから、修復の時も、近くの石切山で切り出してくるとか、その近くで採れる石を使っています。その方が、その土地に石も馴染んでるからいいのかな、と思っています。修復するにあたって補充石を取り寄せるのに、やはり遠くから持ってくるんじゃなしに、例えば高知だったら、周辺にあるチャート石が高知市内か県内で採れるかどうか調べて、その範囲内で調達します。その石が無くなってきたら、四国全体で探す、という感じで修復にあたっております。

小林 布はいかがですか。布の声を聞くという経験はおありですか。

梶谷 はい。ございますよ。

小林 やっぱりそうですか。

後継者問題

小林 粟田さんは立派な息子さんが跡を継がれていますが、梶谷先生、後継者を育てなきゃいけませんよね。

梶谷 今は過渡期と思いたいのですが。まず始めに、ものつくりの人は、ものつくりの人として生まれてきたということがあります。私は、そのものつくりに生まれ、小さい時からいつも自分の手で何かを楽しく作っていました。私のようなものつくりの人間は、現場でこそ仕事ができるのであり、学芸員にはならず、一途に保全修復管理係をして、自分で染織技法史を日々書き上げ直して楽しく暮らしてきました。部下には、自分が修理した染織品が展示されるならこの仕事は続けるけれども、倉庫に入れられるのでは、と、一品製作の展覧会をするものつくりに戻って行く人が殆どでした。誰もが古代のものつくりの仕事から学ぶというわけではないのです。

近代では、ものつくりの始まりの環境が家庭生活から無くなりました。注ぐ必要の無い容器からその液体の質を感じることなく飲み、ボタンを押してモニターに出る光景の速度に無理やりに従わされて自分の理解無いまま「わかった!」となっています。ものつくりとして本職をたてるには、今日の学校の教科には無いことを、自らで目標を立てて毎日実行してみると様々な楽しさに加えて、物事をよく見る機会に恵まれると思うのですれけど、いかがでしょうか。

  • 梶谷宣子(かじたに のぶこ)
    1935年東京都生まれ。メトロポリタン美術館(ニューヨーク市)終身名誉館員。自由学園卒業後、アメリカの機能的手織物制作を学ぶ。1963年渡米、織物美術館(ワシントン市)で古代染織品の材質調査と保全管理を研修し、1966年より2003年までメトロポリタン美術館で染織品保全部の創設と発展に携わる。館蔵の全世界の博物美術染織品の鑑定、長期管理、修復、展示の行政と技能を担った。また、各地域の地勢と気候の特徴によって供給される異なる繊維が導く染織文化の発祥と派生を探究している。2005年より京都在住。
  • 粟田純司(あわた じゅんじ)
    1940年生まれ。株式会社粟田建設取締役会長。安土城、竹田城、福知山城、熊本城など日本にある城のおよそ8割を手掛けたといわれる近江の石工集団、穴太衆(あのうしゅう)「穴太衆積技術」継承者。穴太積みの歴史は古く、古墳や石舞台の築造などに原点が見いだされ、比叡山延暦寺の石垣にも穴太衆の石工が動員された。1989年粟田建設十四代目社長に就任。2000年卓越技能賞。2005年黄綬褒章。2012年選定保存技術保持者。
  • 第1回 先覚に聴く
    日時:2015 年 10 月 10 日(土)

    会場:京都芸術センター 大広間
    話し手:竹本住大夫(文楽・太夫/人間国宝)
    米川文子(生田流箏曲/人間国宝)
  • 第2回 先覚に聴く
    日時:2017 年 3 月 25 日(土)
    会場:京都芸術センター フリースペース
    出演:本阿彌光洲(光意系本阿彌家十八代/人間国宝)
    南登美子(ミナミ美容室三代目/有職美容師)

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