レポート

「八瀬赦免地踊」レポート

日程:2018年10月7日(日)
場所:八瀬秋元神社(京都市左京区八瀬秋元町)
レポーター:旦部辰徳

 TAROは各地の古典芸能・民俗芸能を取材し、毎回異なるレポーターの視点からその魅力を紹介していきます。
 今回は京都の市街地から北東、比叡山の麓にある八瀬の里で行われる「赦免地踊」を取り上げます。踊り手の少年が頭上に切子型灯籠をかぶって踊るため灯籠踊とも言われるこの祭りは、京都市無形民俗文化財に登録されています。

10月7日の6時過ぎ。自転車で鯖街道を一路東へ。それほどキツくはないものの、日常登ることのない斜度の勾配である。叡山の登山口を越えた頃には既にあたりは暗い。涼やかな闇の中ではあるが、体は火照って汗ばんでいる。少しペースを落とす。山木の香りがギュッと凝縮された、初秋の香り漂う山裾の夜気が周囲を満たしていることにこの時気が付く。この感覚に、8年前の晩夏の夕刻、初めて八瀬を訪れた時分が思いだされる。

八瀬の地名を初めて目にしたのは、伊丹十三の『日本世間噺大系」を読んだ時のことだ。それは、八瀬童子のご老人たちが昭和天皇の大喪の時、駕輿丁(かよちょう)を務めた思い出を語る様子が記されたもので、京都市郊外の鄙びた一地域と天皇との結びつきを知った私はその意外に気がはやり、すぐにかの地を訪う算段をたて、山登りの口実にと少しいい自転車を買ってみたりとはしゃいだ。八瀬の名の由来は、矢背とも記されていたことから応仁の乱で傷を負った天武帝が釜風呂でその傷を癒した伝説にちなむという説など様々ある。いずれにせよ、折口信夫が、神の降り留まる義である「やす」という語根を、八瀬に読み取っていたように、古から天人と関係の深い土地であることは確かなようだ。

今回取材した赦免地踊も、八瀬と朝廷との並々ならぬ関係が発端にある。少し詳しく背景を記してみたい。御幸や祭事の警護や山の食物の献上など朝廷と深い関係にあった八瀬の人々は後醍醐天皇の綸旨による免税特権を受けていた。しかし、江戸期になると、様々な政治的要因でその特権が蔑ろにされる。困窮した八瀬の人々は、古来から生活の糧を得る場としてきた叡山での薪の伐採や狩猟により糊口をしのいでいた。そんな苦境に輪をかけるように、叡山一体を結界と考える叡山山門との境界論争が勃発し、入山禁止令が布されることになる。困り果てた八瀬の人々は京都や江戸の奉行所に陳情するも、延暦寺に近しい綱吉の治世、願いが叶えられる由もなかった。しかし、八瀬と縁深かった近衛家の娘を正室に迎えた家宣が六代将軍に就くと状況は好転し、かねてから陳情の窓口となっていた老中秋元但馬守喬知(たかとも)が、後醍醐天皇の綸旨を認める形で、八瀬の地を天領とし、農耕の許可と一切の年貢諸役を免じる旨を記した奉書を八瀬の人々に授与した。「赦免地踊」とは、その秋元但馬守喬知の事績を顕彰し報恩する祭りである。古人の実直な思いが300年近い時を経ても今尚色褪せずにあることへ深く驚嘆するばかりだ。この祭りの場に分け入り、共振れして、その機微を少しでも体感しようとするなら歴史は知っておきたいと、無精者の節句働きだと我知りながら、幾枚かの資料を繰ったのである。

高野川にかかる幾つかの橋を左岸右岸へと渡り越して、自宅のある下鴨から40分ほどで祭の案内所がある区役所八瀬出張所に到着した。時間は夜の7時頃。ここは、250戸余りの集落の門口に当たり、祭りの起点となる場所である。予定よりかなり早く着いたものの、公民館脇の待機所に用意された数列のベンチはすでに観光客でいっぱいだった。案内所でパンフレットを頂き、今年の花宿の位置を教えてもらう。花宿とは、この祭の象徴的な祭器とも言うべき切子燈籠二基が設えられ、それを頭に載せて祭事に就く燈籠着(とろぎ)と呼ばれる中学生の年頃の男子が待機する場所だ。八瀬四町それぞれから毎年一軒づつが当たり、床の間に燈籠、その脇に燈籠着が控え、来訪客に酒や茶が振る舞われる。私はそのうちの千代間家に訪れた。三枚重の赤和紙から一本刀で透し彫りされた武者や花鳥等の細密な切り絵があしらわれ燈籠は想像より大きく、隣に少しく緊張した面持ちで椅子に腰掛けている燈籠着の少年の体半分ほどはあると思われた。数ヶ月かけて作られたという燈籠の荘厳さに負けず、少年の身を包む装束は華美だ。かつて八瀬の人々が宮中に奉仕した際に下賜されたとされる御所染めの小袖に朱鷺色の帯を締め、緋の扱きと浅葱の帯揚げという出で立ちは、まさに鮮やかな女の装い。燈籠の灯を横から受けて薄翳る少年の顔には化粧が施されていることに気が付いた。この女装で燈籠を頭に被いて練り歩く燈籠着の存在が、赦免地踊が奇祭と言われる所以の一つである。

この女装の習俗は、中世末期から江戸中期まで洛中で流行した風流踊と共通する特徴を持つものだ。風流踊とは、様々に美的な趣向を凝らした衣装、被物、採物を纏った踊り手が踊り歌に合わせて群舞するもので、輪踊りの輪の部分をなす踊手と円の中心に位置する囃手で構成される。例えば16世紀の「月次風俗図」では、笠を被り、笠下に手拭い、前垂れ、束ね髪で女装する髭をたくわえた男衆の姿が確認されている。燈籠を被るという形態は、その風流踊りに公家の贈答習俗だった盆燈籠や神仏に献じられた供養燈籠などが混じり合って誕生した灯籠踊の名残を留めるものなのだ。

祭りへの共振れ

宿元に7時40分頃、祭を取り仕切る十人頭と呼ばれる男衆のうち最年少である新家が祭の始まりを告げに訪れると、警固(けご)と呼ばれる青年二人が登場し、燈籠二基を携え灯篭着二人を伴って宿元の下へと降りてくる。警固は燈籠着の経験がある20歳の青年が務め、絣の着流しの出で立ちだ。警固が燈籠を燈籠着の頭に載せると、音頭を取る衆と共にゆっくりと歩き始める。燈籠は5キロ程と非常に重く、また灯には実際のろうそくを用いているため非常に熱い。警固は、燈籠のバランス取りなど燈籠着の負担を軽減する介助が主な役割となる。小さな隊列は、「めでためでたや」という伊勢音頭のゆったりとしたリズムに合わせながら、宿元近くの集落の細道を時計回りに縫って歩き、門口へ向かう。私は、参列者の息遣いが感じられるだけの距離を取りつつ、列の後を追った。「とうろうのよういもできあがり」と囃す声に混じって、「もっとまっすぐ」「足元に気をつけて」「熱くないか」と警固が燈籠着を優しく気遣う声も聞かれる。隊の足取りは、静かで緩やかだが、決して軽やかではない。とりわけ燈籠着の少年の表情のうちには、一歩一歩毎にほとぼりが蓄えられつつも、それに心身をほどかれるのではなくむしろ益々ほだされていく様子が見て取れたように思う。おもむろながら確実に祭りの場が立ち上がっていくにつれ、頑なになっていく何かが空気の中に漂い始めるのを私も肌で感じた。

8時頃、門口に近くと、他の地区から集った燈籠着の一群が目に入る。その少し先、秋元神社の鳥居へと真っ直ぐ続く通りには、さらに沢山の人だかりができていた。年配の八瀬女(やせめ)を先頭に、赤縮緬の着物に金蘭太鼓帯の前結びと扱きを合わせ枇杷色の手甲に赤い布を巻いた鼻緒のわらじという夜目にも著しい装束の少女たちが集う。踊りを奉納する踊り子たちだ。神社により近い側には、紋付を被いた男衆が並び、長老が「よちょうのとうろうはそろたかよ」「なかおどりはそろたかよ」と声を張り上げ、それに各地区の青年代表が応えるという儀式が執り行われていた。祭の成員や祭具が不足なく揃ったかを確認しているのである。間歇的にあがる男衆らの野太い声が、緊張を漲らせていく。その問答の終いの、全てが静止するような冴々とした一瞬間を挟んで、人群は次第に、氷河が山肌を至極ゆっくり滑っていくかのような微妙で荘重な運動性を帯び始めていくのだ。

誰もがおそらくは如意ではない、漠とした歩みが少しづつ積み重なる。しかし、わらじの地擦りの音が重畳し、その音に自ら煽られて、人群は土を踏みしだく力を次第に増していく。遠山の雪崩のように、静々としつつも抑えられた猛りが仄浮かぶ歩みには、確信が兆しつつあるようだ。提灯持ち二名を先頭に、十人頭、音頭取、燈籠着、踊子の順に宮へと練り込む。

私は、再び千代間家の燈籠着と警固の二人に帯同した。燈籠着と警固との交感は、まだ辿々しいようす。中学生と二十歳の青年、その世代の男二人にとっては、わずかな年齢差も埋めるに容易でない懸隔となるし、宮の鳥居に到るまでの数百メートルは田舎町とはいえ街灯も煌々として、その白々しい光が他の燈籠着と警固の姿を物々しく見せ、自らの異形を省みて心安くない気持ちにさせるには十分だからだ。街灯がなければ、と彼らの姿を私はいじらしい気持ちで眺めた。

鳥居に到る。その先には、山間に僅かに拓けた田畑のあいだに、真っ黒に穿たれた溝のように続く参道が見渡された。この闇が待たれた。隊列は、その歩みの過程を逆再生するかのように滞り始める。境内に上がるのに、再び体勢が整えられている様子だ。目に映るのは、自立して中空をふわと漂い飛ぶかのような提灯と八基の燈籠の一群れだけだ。

我彼を見分けるのに容易でない暗闇の参道の中程で、かろうじて先の二人を見つけ出す。警固の彼は、かいがいしく燈籠の姿勢を正す。燈籠着の彼は、闇の中で、笠下の手拭に視線を仕切られて、繭をなすようにいよいよ自閉するかに見える。二者のあいだに交わされる言葉はすでにない。だが恐らく、この暗中の時こそ、それぞれがそれぞれに依存する役割を演じ切り、親密に閉じた一つの系となって分かち難いまとまりを成していく官能的な自熟の時なのだ。燈籠着は警固に自らの未来を見、警固は自らの過去を燈籠着に投影しているのだから。この円環的な関係性は、完成・完結の観念を表現する一形式である。したがって、奉納へと直に志向していた祭の自走的な運動性は、そこでは別の力線に沿った運動を取り始めていると見るべきなのだ。わずか数分間の、祭という非日常の中での更に例外的な状態が、ここに生じていたと言ってもいい。私にとっては、この、物語の中の読点のような束の間の停滞の時こそがむしろこの祭礼の中でもっとも記憶に残るものだった。要するに、それ自体として既に十分美しかったと言い切りたいのだ。

隊列の先頭は、境内へ駆け上がる石段の端に位置していた。8時半頃、おもむろに「しのぶほそみちにさんしょをうえて」と道歌(みちうた)が響き始める。そのしめやかな声音が、隊列を境内へと招き入れていく。境内には、舞台と屋形が設えられている。その前で、神殿が鈴を振り、新発意(しんぼち)と呼ばれる役所が「ようござった、ようござった、さてもみごとなおひめたち、このよのにわではなのおどりをいさめたし」と宣すると、奉納の儀が始まる。舞台の幕開けに新発意による三番叟が披露されると、踊子が花摘踊と汐汲踊を舞う。屋形のぐるりを御所踊の音頭に合わせて燈籠着が反時計回りに練り歩く燈籠回しが奉じられる。恭しく執り行われていく境内での神事や奉納には、境内へと至る前過程がゼンマイの巻き上げだとすると、それを解いて得られる動力に依って立ち上げられる仕掛のようなものだと私は感じた。それは決して、境内での奉納の一連の儀式がそれ自体の熱度と緊張度を失った機械的な運動だと言っているのではない。奉納踊のように祝祭としての具体的な表現を取っているわけではない、いわば裏地をなす部分の質が、祭の面のありようを枠取っているのではないか。地が美しい、しからば面も、というわけだ。無論、先に私が挙げた燈籠着と警固との結び付きのさまは、美しい裏地の一紋様のそのさらに一辺をなすにすぎないものなのかもしれない。しかし、かような一瞬間でさえ麗しくありうることが、この祭にとって決定的な大事であるようにも思われるのだ。

10時近く、奉納の締めには、警固が燈籠を被き屋形を周回する狩場踊が催される。「いざやかえらんわがやどへ」という唄いが聞こえ始めると、周回していた一群は一列に雪崩れるようにして石段を駆け下りてゆく。だが、そこに急いた印象は微塵も感じられない。そろそろとした歩みによって、燈籠の光跡は闇に細くたなびいていく。まるで、祭の余韻が引き延ばされるようなありよう。

この次の日から、すでに次年度の祭の準備は始まるという。赦免地踊における地の部分は、彼らにとっての日常的な生の時へまで拡大されており、余韻が既に次の祭の始まりを告げる調べとなっているのだ。それが300年近く持続されている事実に凄味を覚える。

一応は文学を志した人間であるが、夏目漱石の『虞美人草』の冒頭、東京帝大の学生である甲野と宗近が京都旅行の折、叡山登山に向かう道中、八瀬の名を口にしていたことはすっかり忘れていた。「画のやう」な美人の八瀬女との邂逅の一幕である。平時の八瀬にも、やはり美が煌いていることが示される好例である。記事を書きつつ祭の昂りが呼び起こされて筆が走った。蛇足をご容赦されたい。

 

主要参考文献

家木裕隆「八瀬童子の世界」『神陵文庫』第21巻、財団法人三高自昭会、2005年。

宇野日出生『八瀬童子−歴史と文化−』思文閣出版、2007年。

岩松文代「「都名所図会」にみる京都近郊山村の名所性ー近世京都から伝えられた山村観ー」『日本林學會誌』85(2)、一般社団法人日本森林学会、2003年。

福原敏男「洛北における盆の風流燈籠踊り(地域社会と基層信仰)–(第二部 基層信仰の諸相)」『国立歴史民俗博物館研究報告書』国立歴史民族博物館、2004年。

山本六郎「京の伝統芸能(9)八瀬の赦免地踊」『会報』、京都市文化観光資源保護財団、1986年。

  • 旦部辰徳(たんべ たつのり)
    広告会社勤務後、京都大学大学院人間・環境学研究科にて文学・美学を学ぶ。
    写真展キュレーター、芸術大学での非常勤講師を経て現在文筆業。

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