【特別寄稿】柳沼昭徳「混淆(こんこう)を知る」
2015年の『新・内山』という東日本大震災を背景とした作品以降、劇作家・演出家の柳沼昭徳さんが手がける演劇には、神楽の要素が度々現れてきます。今回、柳沼さんに、演劇人として神楽をどのように見ているのかについて、ご寄稿いただきました。
はじめに
およそ5年前に出会ってから、ずっと神楽を追いかけている者です。
5年。私の出会った神楽のひとつ、岩手県早池峰(はやちね)の大償(おおつぐない)神楽の最古の伝授書が1488年のものといいますから、最低でも500年以上の歴史のある民俗芸能ということになります。そこから見れば5年など、一目惚れしちゃった、出会った程度にすぎません。はじめから分かっていたことですが、知れば知るほど奥が深い、いや、深いどころか、どんどんと混迷を極めていっています。
このテキストは、普段は現代演劇を手がけてきた私が、活動から15年も経とうとしたある日、突如、神楽なる民俗芸能と出会い、感銘を受けて以降の、ぐんぐんとのめり込んでいったその経緯と、同時に神楽と出会ってから、徒手空拳で続けている、自身の作品と神楽との「混淆」の試みの記録です。
先に述べたように、まだ一目惚れをして間もなく。今試していることが、ベストなのかどうかも判断しきれない道半ばゆえ、とりとめもまとまりも無いことも多くなってしまうかもしれませんが、あくまで2019年現在の里程標としてここに残しておきたいと思います。
神楽を一口には語ることはとても難しい。それは、神楽という伝統芸能が日本国内の随所で多く成立し、地域によって傾向の類似こそあれ、舞いや囃子、上演形態、どれひとつとっても同じものが存在しないという、小劇場演劇とも似た、研究者泣かせの極めて多種多様な芸能だからです。
2015年に出会って以降、今に至るまで、私の関わった演劇作品のほぼすべての作品において、神楽は直接的、または間接的に影響を与えてきました。
- 2015年 『新・内山』(主催:京都芸術センター)
- 2016〜17年 『凪の砦』(主催:烏丸ストロークロック)
- 2017〜18年 『まほろばの景』(主催:烏丸ストロークロック)
- 2018〜19年 『祝(しゅく)・祝日(しゅくじつ)』(主催:烏丸ストロークロック)
- 2016〜19年 『新平和』(主催:広島アクターズラボ)
「〜」という表記について。私は最終的な長編作品に至るまで、試作を兼ねて短編作品を創作して、その上演を経ながら改良していく、という創作形態をとっています。したがって、一つの作品としてではなく、ある期間に取り組んだ長短の作品群からなるプロジェクトとして捉えるとわかりやすいかと思います。
年がら年中寝ても覚めても神楽、は言い過ぎですが、だいたいこの人はずっと神楽なんだな、程度にご理解いただければと思います。
この5年の間、私と、共に作品を作る仲間たちは、作品を作るなかでフィールドワークとして東北地方の各県に折に触れて赴きました。そこで、神楽と出会いました。福島県では福田十二神楽、宮城県では牛袋(うしふくろ)法印神楽、そして岩手県では早池峰神楽(岳(たけ)神楽・大償(おおつぐない)神楽)。
上述したとおり、これらの神楽は舞も、囃子も、上演形態も様々です。ですが、これらの共通点は、東北に広く分布する法印神楽や山伏神楽とも呼ばれる、山岳信仰に端を発する山伏(修験者)によって伝えられた神楽であるという点です。
以降に出てくる神楽という言葉の多くはこの法印神楽を指すことを、はじめに明記しておきたいと思います。
福田十二神楽
牛袋法印神楽
法印神楽
2015年に私が最初に出会った福田十二神楽は子供たちによる神楽です。『新・内山』という作品で、東日本大震災の取材をしている中で偶然出会いました。
新地町は福島県最北、宮城県に隣接し、先の震災では津波によって、太平洋沿岸部を中心に町の5分の1が被害を受けました。私が訪問した当時は黄土色の大地が生々しく広がっていました。神楽の稽古と上演が行われる諏訪神社は、津波の影響を免れた町の西部、阿武隈山系につながる丘陵部の森林に囲まれた場所にありました。
神楽殿で子どもたちが舞う姿を拝見したとき、神楽をまともに見たことがなかった私は大きな衝撃を受けたのでした。
まずは身体の使い方。
例えば「種蒔の舞」を例に挙げると、五穀豊穣を祈るその舞の中で、翁が種籠(たねかご)のようなものから種をつかんで地面へと放つ型。腰の種籠に手をまわすために上体を軽くひねると、でんでん太鼓の要領で、腕、そして手が順番についていく。そうして掴んだ種は、ひねった上体の反動が腕に伝わって、掴んだ手が放たれて、蒔かれる。足きりと呼ばれる複雑な動きを繰り返しつつ両足は大地を踏み込む、それに対して膝より上はまるで風にしなる生木のようにミニマルな動きを繰り出す。しなやかに身体を使って、負荷を最小限に抑えた曲げ伸ばしをする。かつて農耕機械がなかった頃のお百姓さんの、智慧ある身体といえます。歴史ある神楽ですから、そうした古の身体が保持されていることに不思議はありませんが、無理や無駄がないその一連の動作に、歴史的な文脈を垣間見たのでした。
そして二つ目は、舞うときの向き。
一般的な舞台芸術は、客席側を正面として観客と向き合う形で上演されますが、福田十二神楽では、舞の多くで客席に背を向けて舞う。これは福田十二神楽というものが、舞台奥中央に祀られた獅子頭に向けて奉納される祭祀の供犠(くぎ)だからです。時に、テレビなどの取材が来ると、お尻と背中しか撮影できず戸惑うこともあるそうです。私たちがShowやArtとして取り組んでいる舞台芸術とは、全く異なる根拠に基づく芸能であることを強く認識しました。
三つめは、コミュニティと芸能の関係性。
かつては大人が担っていた神楽を子どもたちが組織的に継承することになったのは、外的な要因によります。戦時に徴兵制度によって青年たちが集落からいなくなり、神楽を残すために踊り手の年齢を引き下げたことが物理的な理由です。この時この集落では、神楽の継承そのものも子供たちが請け負ったことで、独自のコミュニティを構築することになりました。七年で一代というサイクルを経て、一代を終えた子供が次の代の先生となります。子供たちの相互交流であるとともに、大人からの押し付けとなりにくいからか、神楽を踊ることに対する矜持を感じました。福島第一原発の事故に伴って一時避難していた子どもが、新地町に帰ってくる理由のひとつとして、この福田十二神楽というコミュニティの存在があったといわれています。
都会から離れたその町で、ジャージ姿の子どもたちが夜の神社に集まり、決して派手とはいえない素朴な神楽にひたすら打ち込んでいる姿に、神楽の深淵を覗き見たように思い、また感動しました。これまで見たこともないような、地に足のついたありように「土着」というものがもたらす、豊かさに触れた瞬間でした。
今でも強く記憶として残っているのですが、社の神楽殿で私たちが見たものは、衣装に面、客席まで、ほぼ祭りの本番仕様のしつらえで私たちの到着を待っていた神楽衆と保存会の方々でした。どこの馬の骨とも知れない訪問者に対する歓待のあたたかさに、福田十二神楽が伝統とともに育んできた寛容さのようなものを感じ、私たちはただただ恐縮するばかりでした。
こうした神楽との豊かな出会いがあってからしばらくして。
2017年に「まほろばの景」という作品を作る中で、福田十二神楽に囃子の笛と舞がよく似ていた牛袋法印神楽に着目しました。牛袋法印神楽は、宮城県の南部に位置する亘理(わたり)町で伝えられている神楽です。福田十二神楽と酷似する舞と笛でありながら、牛袋法印神楽には圧倒的な神楽の怪力を感じさせる魅力がありました。囃子と舞に突き動かされながら、アップテンポかつ、身体的な負荷がうなぎ上りに高まっていく舞の中で、ごく普通のおじさんが、徐々に勇壮な舞手へと変容していきます。実際には舞手がとちる場面もあり、舞も決して洗練されているわけではありませんが、玉のような汗をまき散らしながら刀を振り回している、あのおじさんの状態を言葉でどう表現すればいいのかわかりません。驚くべきことに、神楽のもつ怪力がそう思わせるのか、私は直観的にかっこいいと興奮をしていました。舞を見ているのではなく、人間としての力強い行為を見ているのだということに気づいていくことになりました。
この強度はいったい何なのか、法印神楽をたどるうちに、法印神楽と山伏との関係を考えざるを得なくなっていきます。
「まほろばの景」
翌年の2018年、いよいよ東北神楽の代表格、早池峰神楽と出会います。昭和50年に国指定重要無形民俗文化財の第一号として認定された、日本を代表する完成度の高い神楽です。早池峰神楽は、早池峰山で修行をした山伏によって伝えられたとされ、正確には早池峰神楽と呼ばれるものには、「岳神楽」と「大償神楽」が含まれています。完成度が高いと書きましたが、その規模も舞手の人数も突出しています。毎年8月1日の例大祭と、その前夜に行われる宵宮では夕刻からおよそ6時間ほぼ間断なく神楽が舞われています。
特に岳神楽は、長い歴史の中で純粋な伝承が行われてきた神楽と言われ、舞の完成度の高さを、伝承の厳格さや神楽師の専門性が支えてきたと考えられます。私たちが訪れたときの宵宮では、あまりに能動的な客席に驚かされました。観客からの喝采とぶ厚い合いの手。客席の熱気はこれまで感じたことのないものであり、私自身も我知らず声を上げていました。
神楽の舞は、一見、同じことの繰り返しのようにも思われますが、全く同じフリはありません。容易な分析など到底できない複雑で大変困難なことを舞手は要求されますから、それを高い精度で実践する熟練度に驚きます。強度の極めて高い身体がそこに存在します。純粋という形容に尽きるような身体のあり方を目の前に、観客は舞の意味を考えることなく、野生性や土着性を触発されて目を離すことが出来ない。無条件に憧れて釘付けになるほかはない。舞手と囃子太鼓がバシッと鬼気迫る勢いで静止する。まるで濁流を大きな力によって一瞬にして堰き止めるように時空が一点に集中する。その時、観客は歓声とともに拍手や合いの手を入れます。そして再び囃子太鼓がリズムを刻み出し、堰き止められた全てがもう一度、解放され、さらに舞が激しさを増していく。このような場面が、それぞれの舞に特徴的なかたちで存在し、興奮の渦となって観客を魅了していきます。
舞手自身は、所作の意味を前提知識として理解してはいますが、重要なのは舞の意味の伝達ではありません。そこに神楽という行為が存在するという以外に言いようのない純粋さで、舞手の身体が存在しています。思考が介在していない身体、非日常的な身体、強度な存在。「実存」と呼ぶべき状態の身体。それは、心や時間といった観念の介在しない「今、ここ」という場所に存在しています。ここにあるのは「舞に向き合う」ことだけで、意味や目的や演出の介在する隙はない。そこにいる状態の理想の形として、神楽が成立しているのです。
神楽の強度を何らかの形で自分たちの現代演劇と混淆したい。私たちは自分たちの創作上演活動と神楽が不可分のものになることを、みずから選択しました。このきわめて畏れ多い選択が蛮勇であることを自覚しつつ、何年かかるかもわからない混淆への道を探りはじめました。
山伏と「うけたもう」
法印神楽を知ろうとすれば、必然的に山伏(修験者)の存在に行き当たる。はじめにも触れましたが、私がフィールドワークの中で触れた神楽のほとんどが法印神楽であり、遡行すれば源流は山岳信仰とそこから派生した修験道の存在にたどり着きます。
その国土のほとんど、75%が山地であるこの国にとって、山の存在は古くから信仰の対象となってきました。狩猟生活の時代では獲物という恵み、稲作が普及し定住生活がはじまってからは、山は人々に水という恩恵を与え続けてきました。しかし、時に山は自然の厳しさによって命さえも奪ってしまう、人びとは自らの生と死に深く関わる山へ、畏敬の念を込めて信仰を抱くに至りました。
ある地域では、人間の肉体が滅んだあと、魂は里にほど近い山で生前の罪を償ったのち、人知の届かないさらに奥の山へと入り、山の神になる。山の神となってから毎年、春に山から降りてきては子孫の耕す田畑の五穀豊穣を担い、冬になるとまた山に帰っていくと考えられているように、生命のサイクルが、山の奥へ入ることと、山から下りてくるという一連の循環とリンクしていることがわかります。山伏は、人々が待望する「山の神」を山からおろすために里の寺社にやってきて、人びとに代わって祈りました。こうして、人の心と自然を信仰というパイプでつなぐ役割を担ったのが、山伏です。山々を渡り歩き、山の中で荒行を日々重ねる宗教者である山伏は、その修行で培った、常人を超越した強靭な身体と精神をもって、媒介者としての大きな役割を果たしました。
霊的な存在に届く力を、山での過酷な修行から得た山伏は、同時に寛容であるとも言えます。
山形県出羽三山で、山伏の修行に臨む姿勢として受け継がれてきた「うけたもう」という言葉があります。修行を先導する先達に対して、全て「うけたもう」という言葉で返答します。これは、あらゆることをありのまま受け止めんとする山伏の姿勢を示しています。厳しい自然、怪我、病気、生き死に、全てを「うけたもう」と言って受け入れながら、先入観や既成概念を放棄していきます。
この神楽の源流である山伏の身体と精神に触れるべく、烏丸ストロークロックの阪本麻紀ら、作品に参加する俳優陣は、2018年に出羽三山での山伏体験修行に参加しました。先達に導かれながら、自然に身を置き自分の感覚を駆使した様子を、劇団のメルマガに掲載した阪本本人の初日のレポートから引用します。
三日間とも雨で、ずっと雨の中に身をおくことになる。階段がとにかく多く、違うことを考えていたりすると、足が滑ってしまう。目の前のこと、自分の足が今どういう地面を踏んでいるのかを確認しながら一つ一つ上がっていくと滑らない。和歌山にある高野山に登ったときは空気が澄んでいて空に向かう感じがしたが、羽黒山は「下」に引っ張られる力がとても強い。
五重塔に向かって、二列に並んで座り、語りかける。おそらく30分ぐらいだと思うが、雨の中、ひたすら語りかける。時計もないので時間の感覚がなくなっていく。
修行は、「床固め」「鎮魂(魂振)」「忍苦の行(南蛮いぶし)」「抖そう行」「滝うち」などを重ね、「出世式(火渡り)」を経て「精進落とし(直会)」へと至る。身体的にも精神的にも「難苦」が続きます。
修行を終えての感想にはこうあります。
いろんな感覚がリセットされました。修行が終わってから携帯電話を手に持った時の初めて触るような感覚、町中に流れる音楽や一喜一憂する人の姿、、。目や耳に入ってくるあらゆるものがすーっと受け取ることができる状態に「身体」が変化していました。山伏の「受けたもう」という言葉のように、目の前に起きていることをただただ受け入れる、存在を認識する、そして今を生き続けるということを、少しですが触れることが出来ました。
このように、「身体の変化」「受容と実存」「今を生きる」を明確に体感したことが、如実に表れています。
山伏の日常は、山という厳しい現実に向き合い続ける日々です。山での苦行の中で身体的に認識し続ける。今、耳に聞こえている音をそのまま捉え、目の前に見えているものをそのまま感じることが出来る状態に至る。今に対してニュートラルな状態で、今を認識し続ける。
役行者の言と伝わる「修行は難苦をもって第一とす。身の苦によって心乱れざれば、証果自ずから至る」に象徴されるように、身体的にも精神的にも過酷な山伏の修行は、修行することそのものが「自らの身体」によって「今を生きていること」を再確認するための苦行であると言えます。
頭中心の思考的な日常から離れ、身体中心の感覚的な状態で得られる超越した身体と智慧によって、信仰の極意である「理(ことわり)」の追究が可能となっていく。それを修行の中で、一個人が獲得することの強さを踏まえているのが、山伏がもたらした法印系神楽と言えます。
我々がフィールドワークで巡り合い、大きな影響を受けた法印系神楽は修験道に端を発するという性質上、身体的に極めて過酷な舞で構成されていますが、そこには修行に伴う身体的苦痛を経た山伏の実存的身体を担保として人びとの不安を解消する、という信仰的効用が内在しています。
今を生きる
こうした山伏に対する理解を進めていく上で、「心」にとらわれ「今を生きられない」人びとの不安を解消するために、山伏の非日常的な身体と智慧にヒントがあるように2018年以降、思い至ります。人間が、過去の後悔や未来への不安を抱えて生きるという現実は、日々、自らの「心」にとらわれていることを示しています。思考するとは、「今、ここ」とは異なることを考えている状態であり、今を生きていない状態であると捉えると、小さなことでいえば、朝食を食べながらも仕事のことを考えているような日常は、「今を生きていない」状態であふれています。不安や期待を伴う思考、つまり「心」に支配されて「今を生きていない」と言わざるを得ない。
「自分が我慢しているから、あの人も我慢をすべき」というように、多様性が必要とされながらも同時に差異に対する不寛容さによって個が分断されている時代において、こうした同調圧力は、分断された個人同士のさらなる相互不信を高めさせていきます。他者と関わろうとすればするほど、不安をあおられて生きづらさを感じてしまう。生きていく、自分はここに立って、力強く立とうとすることが揺さぶられ、難しく感じられる。私たち一人ひとりがお互いに不安をあおる現代は、生きている、生きていくという活力の相乗効果としてのうねりが生まれにくい時代であると私は捉えています。
山伏の存在は、活力の乏しい時代に対する示唆に富んでいます。自分は今、ここに立っている、存在しているという力を持つこと、生きていく活力を、山伏は体現している、その神髄が神楽には受け継がれていると、舞を見れば腑に落ちる。法印系神楽の本質のひとつは「今をしなやかにたくましく生きる」ことであると確信するゆえんです。
目に諸(もろもろ)の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言はず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
意(こころ)に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず此の時に清く潔き偈(こと)あり
諸(もろもろ)の法は影と像(かたち)の如し 清く潔ければ仮にも穢るること無し
説(こと)を取らば得(う)べからず 皆花よりぞ木実とは生(な)る
我が身は則ち六根清浄なり……
上に引用したのは祝詞「六根清浄大祓」の一部です。「どっこいしょ」の語源にもなった山伏修行の根幹を表わしたこの「六根清浄」という言葉ですが、ここでは外界との関わり方に注目します。「清く潔い」あり方を標榜するこの概念では、六根(目・耳・鼻・口・体・心)で感じる内容を、深層心理に落とし込まないことを、清く潔しとします。日常生活では、六根を受容器として外界を感知して生きている人間が、目の前に嫌なものを見たとしても、深層心理に取り込まない状態が「清く潔い」である。この概念を山伏修行の中で身に着けるために、過酷な身体の鍛錬が必要である。非日常的な身体に修行によって宿る六根清浄の概念は、神楽と同じく人びとの「心」に、健やかな状態のありようを提示し続けてきました。
清く潔く、自分の全体像を保ち続ける山伏の存在が、苦悩する人々を山につなぎ、人とつないでゆく。それはふんわりとあたたかい思いやりややさしさのような観念的なものではなく、難苦である修行を経て頑強になった身体と、感覚的な不安を深層心理に落とし込まない潔い精神の強さに根ざした、人びとへの寛容さと言えます。私たちの演劇に、この概念は強く影響を与え、「まほろばの景」(2018年)では直接的に舞台上に六根清浄の文言や、それを体現する存在、その道を求めて山をさまよう存在が登場します。東日本大震災後の日本に生きる生きづらさに向き合うための、柱のひとつとなりました。
混ざる
早池峰神楽の場合、舞台後方の幕の向こう側が神の世界、手前の観客のいる側が人間の世界であり、その境界であると同時に、つなぎ目である舞台で、神の姿を借りた人間が舞います。囃子に導かれるように幕から出てくるけれども、囃子の音と調和するわけではない。合わせるのではなく、それぞれがその場に混ざって存在しながら、時に、合う。混ざった挙句に純粋になる神楽の魅力のひとつだと思います。囃子と舞手の丁々発止のやりとりは、舞台芸術における音楽と俳優の対等な関係と相通ずるものであり、私たちが創作上演活動において極めて重要視していることでもあります。
「混ざる」の視覚的な表現として、岳神楽の「諷誦(ふうしょう)舞」という荒舞を挙げます。前半、龍神の神楽面をつけた舞手が冒頭からトップスピードで荒ぶる神のごとく激しく舞います。そして、後半になるとその面を取り、前半よりもさらに激しい舞を踊り抜きます。舞手の神懸かり的状態に場内の高まりは最高潮へと達します。神を模した舞が、中盤で面を外すことによって、舞手の身体と神の資格を同時に合わせ持つことになるわけです。前半の面と舞によって、舞手の身体と神の存在がまざっていることを示す象徴的な演目と言えるでしょう。本来、人外であるはずの神と、人がまざり、さらに舞は展開して身体に神の備わった神聖な存在が、舞い続ける。依り代として神託を引き下ろす力を神楽が持つことも当然であると肯われます。
「新平和」
2019年に広島アクターズラボというワークショップで3年をかけて作った、広島の原爆投下を扱った「新平和」という作品があります。
この作品では神楽の舞いもなければお囃子もない、一見すると要素は全くありません。が、作品でやろうとしたことには、それまで得てきた神楽の効能と、山伏の精神が活かされています。
この作品では、平和という抽象的な言葉を、高齢化によって十数年以内に証言者がいなくなってしまうという現実の中、非当事者である人びとが、いかにして継承していくのかということをテーマにしました。この作品の中でも、「孤立」を最も重要な問題として扱いました。
原爆を体験した人たちがしばしば口にする「遭うた者にしかわからん」という言葉があります。ひとつの爆弾によって引き起こされた惨事ですが、その詳細の状況はあまりにも個人的で、被爆体験とそれによって後遺した心身の痛みは、他者との共有を困難にしています。また、現在原爆を語ろうとしたとき、国家、政治、歴史、哲学、倫理、精神、医学などの複層的な空間のありようは、より語ろうとする者の口を重くさせます。上の言葉が、人びとの孤立を象徴するものだとしたときに、現実にはこれらをすべて統合的に語ることは不可能ですが、演劇ではそれらをつなぎ合わせて表現することが可能だと考えての試みでした。
2016年8月6日広島原爆忌。原爆を無傷で生き残った老婆チエ子が、若者と二人、平和記念公園を散策している。
人々が黙祷する8時15分が近づくなか、老婆ははたと何かを思い出し、人混みをかき分けるように独り駆け出していく。その先は原爆の投下目標地点とされた相生橋。老婆にはその橋にまつわる記憶がいくつもある。
ひとつは平和記念公園だった場所にかつて存在した、中島地区。老婆が幼少期を過ごした町の姿。もう一つは戦後復興していく1960年、相生橋で被爆体験をもつ亡き夫にプロポーズをされた記憶。そしてもう一つは原爆投下翌年の8月6日、すべてが塵芥と化したその場所で行われた慰霊祭の最中、家族を失った人々の間に起こったという集団慟哭。
相生橋で足を止めた老婆は、2016年8月6日に平和記念公園を、溢れてくるそれらの記憶を重ね合わせて、眺めている。
終盤の特徴的なシーンです。説明のために改めて文章に起こしてみると、実に複雑な状況です。1945年8月6日以前の町、1946年8月6日、1960年、そして2016年という4つの時間が含まれています。私とメンバーは、これらの、実際にはひとところに共存できないはずの場所・時間・人・思考を、幻想的なファンタジーとしてではなく、現実と乖離しない、必然性のある形で、実存する舞台で混ざる「混淆状態」として現出させようとしました。
重要なのは、そのために、舞台芸術の特性、舞台に対峙した実存する観客の想像力、その力をもって完成させようとしたことです。舞台上には俳優の身体しか存在しない状態で、観客の想像力を引き出すことに成功すれば、その劇場空間全体で、表現が成立するといえます。原爆体験の証言の伝承が危機的状況にあるという問題に、作品のみならず、観客をも巻き込む形で、対峙しようという試みでした。観客が、自己の内面に、重層的で多次元的なヒロシマを描くことで、現実の広島で分断されて孤立感を抱える人たちをつなぐことが出来たのではないかと、私は考えています。
地域で演劇を作る時には、自分自身がどこに立つべきかという自問自答に苛まれます。純粋に現代演劇と向き合うということには、社会の中での演劇の位置づけ、演劇が果たす役割とは何なのかを、考えることも含まれていると思います。
こうした活動と、神楽の共通点を言語化するならば「文脈」あるいは「哲学」と言えるかもしれません。フィールドワークを重ねながら、通奏低音のように関わる者全員に共有されていったもの。俳優たちと時間と場所を共有して同時進行で作ってゆくからこそ生じる、言語化されてはいないもの。各個人の思考の中で漂うように存在している表象を、舞台上に俳優の身体を通じて混淆させていったときに直観的に腑に落ちるもの。そういう表現とそれが執り行われる劇場が、人びとにとってより普遍性をもつ場所、つまり神楽が行われる神社のような場所になりうるのではないか、と感じています。
神楽と現代演劇の混淆
以上は、実際に神楽や修験道の場に我々が踏み込み、その哲学を知り、ごく一端ながらその難苦に触れ、創作に取り込みながら実践してきた過程です。
繰り返しになりますが、舞台芸術は本来、上演そのものは極めて実存的でありながら、同時に現実を凌駕しうる場所です。だからこそ、そこでは孤立した人びとの生きづらさ、人間の統合不可能性をつなぎ合わせ、現前させることができる。それを実現させるのが、舞台上に実存する身体に他なりません。
源流に翻れば、山伏が村々に山から普及したものは信仰にとどまりません。山で得た人的ネットワークによって、はるか遠くの情報を集落の人に伝える役割も果たしていました。情報の媒体、つまりメディアとしての機能を果たし、孤立した地域に信仰や神楽といった文化の交流を作ったのも、媒介者としての山伏です。修験の道にあって「理」を見出そうとし、人びとを救うための非日常的な身体を備えた山伏たちが、寛容な姿勢で、身体性を伴う媒介者として、人びとの前に出現していたことは、芸術活動がコミュニティの築き方の可能性を広げるものであることを、私たちに気づかせてくれます。
神楽は祭祀として生まれ、時代の変遷の中で芸能としての能や歌舞伎の影響を受け入れつつ、維持継承においては社会の情勢や支配体制からの圧力や変化に柔軟に対応しながら、現在までその命脈をつないできました。明治に修験道が禁止され、宗教者としての肩書を剥奪されてもなお、しなやかでたくましい芸能として神楽は継承されてきました。現代のコミュニティの課題に鑑みると、多種多様な「もの、こと、ひと」を寛容に受け入れてきた神楽が、強靭な芸能として結実している歴史的事実は、示唆的です。
風雪の中で山々を駆け巡り、様々な苦行に耐えて獲得された山伏の身体と智慧、その身体で生まれた神楽。それらが人心の拠り所となったように、多様である反面、細分化された現代社会をつなぎとめる媒介者となるべく、敢えて蛮勇をもって混淆の試みを続けていきたいと、今、考えています。
柳沼昭徳
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- 柳沼昭徳(やぎぬま あきのり)
- 劇作家・演出家。1976年京都市生まれ。近畿大学在学中の1999年に「烏丸ストロークロック」を旗揚げ、京都を拠点に国内各地で演劇活動を行う。作品のモチーフとなる地域での取材やフィールドワークを元に短編作品を重ね、数年かけて長編作品へと昇華させていく創作スタイルが評価され、各地で演劇ワークショップや市民参加型の創作も多く手がけている。近年では地域に伝わる神楽や祭、山伏文化と精神性に触れ、『まほろばの景』(2018)は日本古来の感覚を呼び覚ます作品として反響を得る。また、俳優・スタッフには関西外からも多く人材を起用、ワークショップや市民参加型の創作も多数手がけ、団体や地域の垣根を越えた活動の中で、地方都市での持続可能な創作の形を追求している。第60回岸田國士戯曲賞ノミネート、平成28年度京都市芸術新人賞受賞。烏丸ストロークロック『まほろばの景』再創作四都市ツアーを2020年初春に予定。
(写真撮影:松原豊)